「君たちはどう生きるか」感想

 ジブリの新作映画「君たちはどう生きるか」を見てきたので感想のような批評のような考察のようなものをブログに残しておこうと思う。

 ちなみにアニメ自体のシンプルな感想として普通に面白くて良かったです。タイトルを読んだ時に感じた説教臭い部分は本編には全くなく、作画や光の表現も素晴らしくよいアニメ映画でした。家族で見るのも問題ないと思います。序盤に火災や流血、大量のカエルなど人を選ぶ描写はあるのでそこだけ気を付けて下さい。

※ここから先ネタバレありで書くので気を付けてください

最後石の塔が崩れても世界続いてるけど結局何だったの?

 とりあえずあのアニメ見て一番気になるところについて考えてみようと思う。

 終盤、主人公の入り込んだ世界の管理者という「大叔父」が「自分の役割を継いでくれ、そうしなければ世界は終わる(意訳)」と言い出す。なんでも大叔父はその世界で必死に不思議なジェンガのバランスをとって世界を存続させていたらしいのだ。それももう限界で自分の家計の血を引いた主人公にその役目を引き継ぎたいらしい。主人公に「悪意のない石」を渡してこれでジェンガしてくれ、と頼むわけだ。

 それに対する主人公の答えは「俺自身が悪意持ってるからその石でジェンガしてもダメ。やらない(意訳)」である。

 そしてそれを見ていたラスボス風のインコの大王がしゃしゃって「俺がやってやる(意訳)」とメチャクチャ不安定なジェンガを組み立てて、崩れそうになるのを見てキレて自分の刀で一刀両断してしまい、世界は終わる。

 崩れ落ちる世界から主人公たちは脱出し、無事元の世界へ帰れました。めでたしめでたし……。

 これが大雑把なラストの展開である。なんか文章がバカみたいになってしまったが、ちゃんと真面目なシーンである。

 さて、ここで私は疑問に思った「あれ?あの石崩れたら世界が終わるんじゃないのか?普通に存続してるけど?」。

 この点について私が考える解釈には3通りある。

  1. 終わる世界は不思議な世界だけ
  2. 終わる世界は現実と不思議な世界両方(奇跡が起きて現実は無事)
  3. 終わる世界は現実と不思議な世界両方(実際に両方滅びた)
1.終わる世界は不思議な世界だけ

 最もシンプルな解釈。

 なんか大仰に大叔父は言っていたが実は主人公が迷い込んだ不思議な世界が終わるだけで現実世界は存続する。

 事実、現実の世界は続いていたのでこう解釈するのが普通だろう。大叔父自身も最後に「自分の世界へ帰れ」と言っているので現実世界が無事なのは分かっていたと思われる。

 この解釈の場合「そんな現実に関係ない世界、大叔父さんはなんで必死に存続させようとしてたの?」という疑問が残る。

 非常に雑で申し訳ないが、ここで私は伝記的批評を行おうと思う。

no-known.hatenablog.com

 

 これは、この作品の「大叔父」とは「宮崎駿監督」である、という解釈である。

 宮崎駿監督は今まで「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」など多くの幻想的な作品を作り出してきた。

 それが今作における現実とは関わりのない不思議な世界そのものである。

 大叔父が現実とは関係のない世界を維持し続けていたのは、それが彼の生業だからである。その言葉通り、彼の生死と世界の維持は直結している。不思議な世界が崩れたあと、彼が現実世界に帰ることはなかった。

 彼は彼の作品とともに消えていく。つまりこの作品は宮崎駿監督の壮大な引退宣言である、と解釈が可能である。

 とはいえ……先ほども言ったようにかなり雑な解釈だと言わざるを得ない。私は宮崎駿監督のことを良く知らない。もしかすると主人公に世界の存続を拒否された部分が重要で「自分の跡継ぎ出来る奴がいないからジブリはもうおしまい」という単なる愚痴である可能性もあるし、「こんな現実と関係ない世界に必死になってどうすんの?」という皮肉である可能性もある。

 結局、伝記的批評は作者のことを深く知らなければうまく機能しない。でもまあ、頭の中でいろいろと想像するのはタダである。これはこれでこの作品の楽しみ方の一つだろう。

2.終わる世界は現実と不思議な世界両方(奇跡が起きて現実は無事)

 個人的に最もつまらない解釈である。奇跡ってなんだよ。

 作中にそういう描写もなければ設定の開示もない。全網羅で考えて出てきただけの選択肢、考察する価値もない。

 実際制作側もこんな解釈されるのは想定外なんじゃないかな。しらないけど。

3.終わる世界は現実と不思議な世界両方(実際に両方滅びた)

 個人的に好きな解釈。

「いや、最後に主人公は家族と一緒に東京に帰って行ったじゃん!」とツッコミが入るだろう。その通りである。私は別に「あの最後の描写は死後の世界だったんだ!」などというつもりはない。だが世界は事実滅びたのである。

 大叔父の考えの上では。

 ここで思い出して欲しいのが、この映画の時間軸は第二次世界大戦中だということである。サイパンでの戦い(1944年6月~7月)の話が出てくるし、父親の工場では戦闘機のフロントガラス(キャノピー)部分を生産している描写もある。

 ここでの解釈は「大叔父は日本の敗戦を『世界の終わり』と認識していたのではないか」というものである。大叔父はしきりに「悪意」や「バランス」について発言していたが、それは戦争や世界情勢のことだったのである。

 だから現実の世界は事実滅びた。日本の敗戦によって。だが、主人公たちの営みが消え去ったわけではない。ここで私はポストモダニズム批評を適用してみようと思う。

no-known.hatenablog.com

 

 ポストモダニズムでは普遍的な「大きな物語」を退け暫定的な「小さな物語」こそが大切であると主張する。

 この作品において「大きな物語」は戦争の物語である。それは大叔父が縛られ続けていた物語であり、それゆえに敗戦は世界の終わりであるという認識にまで至らせてしまったものである。

 そして「小さな物語」とは主人公「牧眞人」の周りの人たちとの物語である。

 牧眞人にとって戦争は近くて遠い出来事だ。冒頭、昭和の世界観からサイレンと火災の発生で誰もが「空襲」の2文字が頭をよぎる。だが実際にそれは空襲ではなく母親の入院している病院が火事になったというものである。

 そして牧眞人はその後東京を離れる。サイパンの戦いの話が出るころには離れていたので東京大空襲(1944年11月~)も経験していないだろう。父親の工場で作っている戦闘機の部品を見たときの感想は「美しい」である。

 そして不思議な世界の体験が終わった後、彼の口からあっさりと「戦争が終わったので東京に帰る」と告げられる。原爆も落ちているし、玉音放送もあっただろうがその言及もない。牧眞人にとって、戦争は自分とはほとんど無関係に進行していた1つのイベントに過ぎない。

 彼にとって大事なのは火事で母親が死んだこと、そのすぐ後に父親が母親の妹と再婚していることである。再婚相手のナツコに対し、彼は明らかに反感を抱いていた。はっきりとは口にしないがナツコが進めた学校の帰り道でわざと大怪我をしてみたり、最初に塔に行ったときにナツコの呼びかけには答えないのに女中の呼びかけには答えたり、何度かナツコの見舞いに行くように言われたのになかなか行かなかったりと行動に現れる。

 そしてその確執を1冊の本と不思議な世界での冒険が変える*1。牧眞人の物語は関係性がこじれたナツコとの仲を回復することでエンディングとなる。そこに戦争など挟まる余地もない。

 記憶があいまいになってしまったが、大叔父からのお願いを断るときに名前を出したのも牧眞人の周りの人たちのことだけだったように思う。彼にとっては自分たちの周りの小さな関係性などが一番であり、大叔父のいう世界や戦争などはどうでもいいものだったのだ。

 「大きな物語」の否定と「小さな物語」の肯定がここに現れている。

 この物語の中では世界を揺るがすような物語よりも個人の周りの物語のほうが肯定される。この物語で主人公の行動を変えることになった1冊、それが「君たちはどう生きるか」である。私はこの本を読んだことがない。しかし、牧眞人の小さな物語を動かすほどの力がある作品なのは確かなのだろう。

 いつか私も読んでみたいと思う。

おわりに

 スタジオジブリ宮崎駿監督作品……!はいふり批評家の端くれの私でも「批評して見てぇ~~~!」という衝動を抑えられない。というかスタジオジブリ作品を映画館で見たの初めてだと思う。しかも公開日直後に。こんな体験、この先何度もできるものではないからちゃんと文章に残しておいた。

 他にも気にするべきことはある気がするが*2とにかくいい作品を見れてよかった。

 久々にはいふり以外の作品の批評しちゃったぜ。

*1:1冊の本だけで変わっており、そもそも不思議な世界での冒険など必要なかったという解釈もある

*2:普通自由の象徴として扱われる鳥がやけに不自由だったりとか