はいふり批評7 吉田玲子と「視点」と「家族」

アンドレア「英雄のいない国は不幸だ!」

ガリレイ「英雄を必要とする国が不幸なんだ」

ーーベルトルト・ブレヒトガリレイの生涯」

今回は伝統的批評の一つである「伝記的批評」に手を付けていく。これはその名の通り、作品を作者の人生の反映として見る「伝記的」なアプローチである。

 アニメにおける伝記的批評の困難さ

さて、「伝記的批評」を用いてアニメを見るとき、最も頭を悩ませるのは「作者」とは誰か?という点である。

原案である鈴木貴昭か、監督である信田ユウか、シリーズ構成の吉田玲子か、プロデューサーである柏田真一郎も選択肢に入ってくるだろう。様々な人物が構成や脚本を吟味したであろうTVアニメにおいて、「伝記的批評」というアプローチは現実的でないように考えられる。ある場面では原案の人生の反映が、ある場面ではシリーズ構成の人生の反映があったとして、それを視聴者が明確に区別することなど不可能である。

そこで、今回ははいふりのシリーズ構成を担当した吉田玲子に狙いを定め、各種インタビューと担当作品から伝記的批評を試みてみようと思う。

各種インタビューから出てくる「吉田玲子」像

まずは各種インタビューから構成・脚本の傾向を見ていく。参考にしたのは以下のインタビューや記事になる。

www.hai-furi.com

nlab.itmedia.co.jp

realsound.jp

realsound.jp

上記の4つの記事を読むと非常に多くの情報を得ることができる。まずは吉田玲子が大切にしていることについて、いくつか本人の発言とデビュー作からの推測ができる。

新しい一歩を踏み出す、違う世界の扉を開ける、違う物の見方ができるようになる。人のそうした姿を描くのは基本的に好きです。

 「・・・薄汚くて抜け目ない、そんなワルでも、きらりと光る宝石みたいなものを持ってる」(「月刊ドラマ」1993年1月号 P.104)

デビュー作には作家性が強く反映されるというが、「きらりと光る宝石」というイメージは吉田が本当に大切にしているものではないだろうか。

 「違う物の見方ができるようになる」という部分では、岬明乃と宗谷ましろの関係性をすぐに思い浮かべるだろう。2人とも最初はお互いを理解できずに苦しんだが、7話でそれぞれの立場になることで和解を果たした。

 

ではここで「新しい視点の獲得」という観点からはいふりの物語を再構築してみる。

岬明乃の視点の変化、宗谷ましろの視点の変化

新しい視点の獲得として、一番わかりやすいのはやはり岬明乃と宗谷ましろの視点のスイッチになるだろう。「誰かに命の危機が迫ると単独で救出に向かう」という岬明乃の特性は第二話の時点から描写されていた。それに対して、宗谷ましろが明確に反発するのは第五話になってからである。続く第六話で、再び船を飛び出した岬明乃に対して宗谷ましろは以下のように叫ぶ。

ちがう、常に船で指揮をするのが艦長でしょ!

Always on the deckってそういう意味じゃないのか!

 この時宗ましろは「Always on the deck」を誤用しているが、とにかく彼女は常に艦橋で指揮をとるのが艦長であると認識しているのだとここで描写されている。

2人の艦長像はここで明確な違いを見せることになる。

そして、艦長像の違いによる2人の対立は、第七話にてお互いの視点を切り替えることで解消していくのである。いつも飛び出してしまう明乃が船に残り、逆にましろは助けてもらう立場となる。この視点のスイッチにより、明乃は自分の行動を反省し、ましろは明乃の行動に寛容になっていくのである。

第八話で岬明乃は艦橋でしっかり指揮をとり、第九話では救出作戦のスキッパー隊に加わることをましろは了承する。自分だけの一方的な視点ではなく、お互いの視点を取り込むことで2人の関係性は改善していったのである。

「視点を切り替える」ことで物語が良い方向へと向かっていく、というこの部分は吉田玲子の特徴が強く出ている部分なのかもしれない。

作品に共通する「家族」という要素

次に、吉田玲子がシリーズ構成・脚本を担当した作品で共通の特徴がないか調べてみる。対象とした作品は以下の4つである。

 対象としたアニメはすべてオリジナルアニメとなっている。原作ありのアニメでは、構成が原作よりに流されやすいと考えたので、オリジナルアニメだけをピックアップした。実は上記4作品のうちたまこまーけっとを除く作品には鈴木貴昭も関わっている。吉田玲子と鈴木貴昭の特徴を誤読してしまわないか不安ではあるが、近年のオリジナル作品に絞るとどうしても上記のような選出になる。

さて、上記4作品を見たとき、ある特徴的な要素に気づく。それは「家族」である。この4作品には全く別々の「家族」が描かれているのだ。

ガールズ&パンツァーの家族

主人公の西住みほの家は戦車道の名門である「西住流」の家元となっている。両親と姉1人という構成で、父親はいないわけではないが作中では登場していない。

ガールズ&パンツァーの物語は西住みほが家の戦車道と自身の考えの乖離から大洗学園に転入したところから始まる。母と姉に対して、確執を抱えた状態からのスタートになるのだ。そして、大洗学園の中で西住みほは3つの家族の形を見ることになる。

 西住みほの家族関係と対比されているのは間違いなく五十鈴華の家族だろう。母に逆らい、家の流儀とは別の華道を見つけようとする華は、母に勘当された後次のセリフを言う

いつかお母様を納得させられるような花をいければ、きっとわかってもらえる

これはまさに西住みほの状況に当てはまるものである。実際に最終話では、自分自身の戦車道をもって優勝を果たしたみほに対して、母は拍手でその戦いを認めたのだ。

それに対して、秋山優花里と冷泉麻子の家族は母側の視点を描いているのかもしれない。自分の娘に友達ができたことを喜ぶ秋山優花里の両親、辛辣な言葉を投げかけつつも本心では心配している冷泉麻子の祖母。こうした家族の姿を西住みほに見せたのは、その後の和解への橋渡しという意味があるのだろう。だが、TVシリーズの中でそれが達成されることはなかった。

銀河機攻隊マジェスティックプリンスの家族

マジェスティックプリンスに出てくるチームラビッツの5人。というより、グランツェーレ都市学園の生徒は全て明確な親が存在しない。彼らは敵であるウルガルの遺伝子から作られた人間なのだ。一応育ての親はいるのだが、その親のことも入学時には記憶から消されている。そのため、彼らは全員「家族」というものが良く分かっていない。

そのことを象徴するのが第七話でピットクルーたちについて会話するチームラビッツのセリフである。前述のように家族というものが良く分かっていない中、ピットクルーの面々に「家族だと思って接してくれ」と言われて戸惑うヒタチ・イズルは、そのことをチームラビッツのメンバーに話す。

イズル「これからずっとここにいるとなると、毎日話しかけられるのかな」

タマキ「家族って大変なんだね」

スルガ「俺、いまちょっと気が楽になった」

アサギ「なんで?」

スルガ「家族が誰もいないって、実は気楽なことなのかもな」

ケイ「・・・そうね」

彼らは現代に生きている人より、かなり家族から距離を置いた考えをしていることが良く分かる。あまりに関わらなかったために「一般的なイメージ」すら持っていないのかもしれない。

しかし、そんなチームラビッツの面々が「一人だと落ち着かない」と言いつつアサギの部屋に全員集まったりとまるで家族のような関係性を持っているのが面白いところである。

そして、その後「家族のような関係性を持つ人たち」の中にピットクルーも含まれるようになっていく。

たまこまーけっとの家族

主人公の北白川たまこの家族構成は祖父、父、妹となっている。母親は亡くなっているようだ。母親の死については作中で掘り下げられはしないが、その出来事がたまこの夢や、行動に影響を与えている。

家族全員が餅屋としての生業に関わっている、という珍しい作品であるが革新的なたまこに伝統を重んじる父親、もちにちなんで名づけられた自分の名前が嫌いな妹など、一癖あるキャラが物語を紡いでいく。たまこと父親は餅屋の今後に関して意見を違えることが多いが、それが致命的な関係破綻につながることはない。ある種の理想的な家族を描いてるように見える。

ハイスクール・フリートの家族

さきほどまで吉田玲子の携わる3作品の家族の様相を記述してきた。3作品共に異なった家族の形を見せているのが分かるだろう。言い換えれば、様々な視点から家族というものを描き出そうとしている。

それでは、最後にはいふりを見ていこう。

 

岬明乃の家族は両親とも他界している。しかも、彼女が幼いころに亡くなってしまっために、家族との記憶もほとんどない。家族という概念に対する明確なイメージが欠如している岬明乃は、逆に明確なイメージを持っている宗谷ましろと衝突することになるが、それは前節で触れたのでここでは省略する。

はいふりの「家族」の扱いは前述した3作品の中で最も大きい。「海の仲間は家族だから」という岬明乃の言葉に代表されるように、「家族」は彼女の行動指標に大きく関係しているのである。「家族」という概念ではいふりという作品を一言で表すことも可能だ。つまり、「家族を失った岬明乃が、再び家族を見つけるまでの物語」である。

「家族の物語」としてはいふりを捉えると、複雑な物語もすっきりとしてくる。

  1. 失った家族を再び見つけるために船に乗り込む岬明乃
  2. 大きな事件に巻き込まれつつ、次第に晴風クラスとの仲が深まる
  3. 赤道祭で晴風クラスを本当の家族だと思えるようになるが、同時に艦長としての責任に苛まれる
  4. 晴風クラス全員で艦長を支えると言われ、艦長として復活
  5. 新しい家族を得た岬明乃は、家族と共に最終決戦に挑む

特に、第十話の赤道祭が物語に必要不可欠だとはっきりするだろう。はいふりは、作品自体と同様に第十話の赤道祭についても評価が大きく分かれている。家族というテーマを捉えられたかどうかが、この評価の違いに現れているのだと思う。

おわりに

本来、伝記的批評では「新しい視点の獲得」「家族」という要素が出できた場合、吉田玲子がなぜその要素を重視するに至ったかについて、その半生を追って精神分析のような作業を進めることになる。しかし、今回はそこまでは入り込まないこととする。そもそも情報が少ないことと、はいふりに対する新しい見方ができた時点で伝記的批評としての目的は達成したことが理由である。

次のはいふり批評は以前衣笠HFFで配布した冊子をブログに落とし込もうと考えている。批評の分類でいくと形式主義批評になるだろう。