はいふり批評26 日本が生んだはいふりというアニメについて

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。

――中原中也「春日狂想」

今回は、脱構築批評を試したときに言っていた「日本のアニメであるはいふりを批評するための批評理論」について考えがある程度まとまったので形にしたいと思う。

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日本人が共通して抱く世界観や価値観を紐解いて、それを批評に応用する。文化人類学の文学批評への応用のようなものだと考えている。おそらく「カルチュラルスタディーズ」と呼ばれるものに近いか、あるいはまったく同じものだが、この辺りの差異は私にはよくわからない。

日本人がどういった精神的構造を持っているかについては、過去様々な人たちが議論してきた。その中でも「部分が全体に先行する傾向」「大勢順応主義」について今回は俎上に載せて考えたい。

部分が全体に先行する傾向

PJ管理でよく使われるWBSは全体の作業を細かく分解してタスクに落とし込んでいく手法である。社会人であれば触ったことがあるのではないだろうか。「仕事の目的・目標を把握し、達成のために必要なタスクへと分解していく」大きな仕事を進めるときには必要になってくる考え方だろう。

だが、日本人の価値観はこれとは全く逆…全体よりも部分の方が重視されるというのである。これは日本語の特徴であり、同時に日本人の世界観の特徴ともなっている。*1

全体としての整合性よりも、部分としての描写の洗練が優先される…当然ながらこの特徴は日本の最古の歴史書である古事記の時点から見られる。古事記には聖帝(仁徳天皇)の逸話が書かれているが、「なぜ仁徳天皇が聖帝と呼ばれているのか」という天皇の正当性をうたう部分は少なく、女関係を述べている部分の方が多い。そして、むしろ後者の方が詳細に生々しく描かれているのである。

こうした全体よりも部分の描写に注力する傾向は「日本霊異記」「伊勢物語」、時代が下って「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」、さらに下って川端康成の小説などに見られる。

同時に、日本人は全体から物事をまとめるのが苦手らしい。言語学者外山滋比古も、著書の「日本の修辞学」で以下のように述べている。

与えられた、あるいは集めた材料をなるべく多く生かして大きな構造にして行くアーキテクトーニクス(建築術)がわれわれ日本人には苦手であるらしい。

確かに、日本人には長屋のように建増ししていくような作り方の方が得意なのかもしれない。外山滋比古は別の著書でも「日本人は段落をあまり気にしない」と主張し、ヨーロッパの言語をレンガに、日本語を豆腐に例えてこう言っている。

煉瓦はしっかり積んでゆけばどんな大きな建築もできるが、豆腐は三つか四つ重ねたら崩れてしまう。ひとつひとつを独立させるよりしかたない

ここから考えると、形式主義フェミニズムマルクス主義など作品全体の一貫した構造だとか主張を強調するような批評よりも、もっと細部に注目した批評こそが「日本的な批評」になってくるように思われる。

「部分」に注目したはいふり批評

部分の洗練という意味で、TVアニメはその美学を十分に反映できる形式を持っている。話を12話*2に区切り、一週間ごとに放送していくスタイルではどうしても全体より部分に注目せざるを得ない。

実際、アニメ評論の界隈ではアニメのクール単位ではなく話数単位で評価を下すことも行われている*3

また、制作的な観点でも話数ごとに参加するスタッフが異なるため、異なる色が出やすい。特に昔のアニメは作画監督の違いでキャラの顔が大きく変わることもあった。この点は放送形式自体は同じTVドラマとの大きな相違点となる。

以上のことから、はいふり云々よりも前にTVアニメという形式がそもそも日本人の感覚に合っていると言えるだろう。

では、はいふり単体としての部分の洗練は一体どこになるのだろうか。はいふりをお仕事ものとして見る場合、砲雷科・航海科・主計科・機関科とそれぞれの職務に対してキャラを配置し、仕事の内容を表現したという意味で他作品にはない部分の洗練が見られるだろう。赤道祭という取り上げられる機会の少ないイベントや、機雷掃海についての映像化も注目すべき特徴だ。

はいふりが今までの船が舞台の物語に比べ、より部分へと目を光らせた作品になっているのは確かだ。だが、洗練という意味では不満が残る部分もある。

それぞれの職務に対してはいふりは大まかな仕事の内容を伝えてくれる。しかし、その詳細については分からないことも多い。炊事委員の3人は日々の献立をどのような観点から決めているのだろうか?おそらく栄養バランスや残りの食料を考慮するのだろうが、作中にその描写はない。応急員は浸水を防ぐために何を行うのだろうか?破孔にパッチを当て、それを角材で固定するのだがその描写もない。他にも射撃指揮所での砲術員の動きであったり、日々の航海日記の検閲など描写されない部分は多い。

もちろんこれらはメインストーリーには全く関係がないため、描写されなくても当然のものである。しかし、日本人の感性から言えば、メインストーリーが中途半端であっても、部分が洗練さえされていれば高い評価を得られる可能性があるのだ。全体は、部分が優れている場合に限り評価対象となるに過ぎない。

逆に、お仕事ものや船の物語、岬明乃と宗谷ましろの物語として全体の構成をしっかりと作り上げたはいふりは、その日本人の感性にあまり適合しなかったと言えるだろう。

大勢順応主義

「主義」という言葉を使っていいのか若干怪しい気もするが、日本人は大勢順応主義の中で生きているらしい。これは言葉の通り、大きな勢いに従っていこうという運動である。ここで重要なのは「一緒に行動する」ことであって、目的の崇高さなどは問われない。

日本における大勢順応のいい見本となるのは第二次世界大戦敗戦後の動きだろう。「鬼畜米英」から「米国追随」に、「打ちてし止まん」から「平和主義」へとほとんど一夜にして変わってしまった*4。戦前~戦後を通して日本に住んでいたフランス人の記者ロベール・ギランはその移り変わりの様子を以下のように語る。

新しい日本が表舞台に登場し、一見、昨日の日本とは連続が欠けている。この変身には裏切りの欠片もない。この国民は「インスタント族」であって、いわば「振り子のように動く」のだ。

文化人類学者のルース・ベネディクトもその著書「菊と刀」の中で似たことを述べている。

日本の倫理は、あれか、しからずんばこれの倫理である。彼らは戦争によって「ふさわしい位置」をかち得ようとした。そうして敗れた。今や彼らはその方針を棄て去ることができる。

日本人は今まで信じていた原則を捨てて立場を変えるわけではなく、立場を変えることを原則とする民族なのである。グレゴリー・クラークが日本社会を指して言う「軟体動物社会」も同じような意味だろう。

このような社会でどのような価値観が生まれるかと言うと、大勢を担う集団に「私」を殺して奉仕することを美しいとする価値観である。この美学において、大勢の向かう先はどこでもよい。大切なのは「団結」して進んでいくことである。倒幕を目指した志士と幕府に雇われていた新選組、ともに現代において高い人気を誇るのは、そのような価値観のあらわれだろう。

同様に、「仮名手本忠臣蔵」の元となった赤穂事件、江戸時代の農民一揆五・一五事件など自身の死を顧みずに集団のために突き進もうとする傾向が日本の歴史ではよくあらわれる。こうした価値観は日本的な批評を行う上で重要になってくる。 

「集団への奉仕」に注目したはいふり批評

「集団への奉仕」を考えたとき、はいふりは今までと別の見方が可能になる。

以前の批評ではいふりに敵がいるとすればそれはRATtという存在、そして全体主義であるという話をした。

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今回の集団に着目した批評ではその解釈が少し異なる。はいふりに登場していた敵は二種類いたのだ。 

まず一つは当然RATtである。日本人の価値観であれば成員が一つの目的の元に突き進んでいくことが重要である。当然、RATtのように集団から意思を奪ってしまう存在は受け入れられないだろう。作中描写的にもRATtは拡散を防ぐべきものとして一貫して描かれていた。

もう一つの敵は、初期の晴風という集団、つまり場当たり的に事件に対応することしかできなかった集団そのものである。事件に巻き込まれるだけだった晴風クラスが、第六話を境にブルーマーメイドとしての使命感に目覚め、一丸となって事件を解決しようとする。「仮名手本忠臣蔵」もそうだが、普段は別々の生活を営む者たちが、同じ目的のために団結し進んでいく姿が、日本人は好きなのだ。

そしてこの価値観ははいふりの賛否両論を読み解くために使うこともできる。

日本人が集団の目的よりも集団の一員として自分を殺して奉仕することに価値観を置く民族だとすると、第五話の岬明乃がスキッパーで飛び出すシーンはこれまでの批評とは違って見えるだろう。

賛否両論となっていた第五話について、家族というものに対する価値観や役職・責任に対する価値観から意見が割れていたと今までは考察をしてきた。だが、日本人の価値観に合わせてみれば、あのシーンは「集団への奉仕ではなく、個人の利益を優先した」という点において反感が起こっているのではないかと考えることができる。

作中で岬明乃が晴風クラスという集団に対して明らかに背を向けたのは第五話のみである。あとは集団と合意が取れていたか、第十一話のように集団への奉仕が葛藤の一つに含まれていた。見方を変えればはいふりという物語は、集団の成員として(日本人の価値観で)未熟だった岬明乃が、成熟するまでの物語だと捉えることもできるのだ。

おわりに

はいふり批評の割と初期から気になっていた「日本の作品に適した批評理論」について、今回試してみた。結論は他の批評と大差ない感じになってしまったが、ある程度の満足はできた。もちろん、今の時点での満足という意味ではあるが。

文学的な面から見るはいふり批評については、書きたいことを書ききったように思うので、この辺りで区切りをつけたいと思う。私の書くはいふり批評はここで終わりとなる。

いつになるかは分からないが、今後は文学以外の側面、つまり作画・音楽・演出に対するはいふり批評についても考えていきたいと思う。もしそれらの批評を書く日が来たら、またお付き合いいただきたい。

*1:加藤周一著「日本文学史序説 上」

*2:1クールアニメの場合

*3:https://aninado.com/archives/2021/01/01/561/

*4:加藤周一著「日本文化における時間と空間」