はいふり批評8 形式主義批評その1 ネコと一緒に見るはいふり

 ひとしきり、騒ぎが一層激しくにぎやかになったとき、タルーはふと足を止めた。暗い舗道の上を一つの影が軽快に走っていた。それは一匹の猫、春以来おそらく初めて見かけた猫だった。

ーーアルベール・カミュ「ペスト」

今回は形式主義批評・・・特に構造主義批評を用いてはいふりを見ていく。前回取り上げた吉田玲子へのインタビュー記事の中にはいふりにまつわる興味深い記載がある。

シナリオ先行で、そこからキャラクターをイメージして作っていただきました。

まずシナリオありきで作られたはいふりでは、それだけキャラクターの役割に焦点を置いている可能性がある。そのため、構造主義批評の格好の対象になりうる可能性を秘めているのである。

 形式主義批評について

形式主義批評とはその名の通り物語の形式面に関心を寄せる批評である。ロシア・フォルマリズム、新批評、構造主義批評が該当する。正直この3つの批評について細かな差異を私は分かっていないが、「似たような批評」をする分には全く問題ない。

個人的に構造主義批評が最も科学的であり、「ロマン」という言葉からはるか遠いところに物語を置こうとしている批評に感じられる。構造主義はそれまでの主観的な批評から背を向けて、客観的な批評へと切り替えた。主観性が絡む「解釈」ではなく、誰でも同一の答えとなる「構造」に目を向けたのである。

構造主義批評を用いてはいふりを読むにあたって、構造主義批評の根本とも言える見方、「二項対立」を見ていこうと思う。

「二項対立」とは2つの概念が矛盾・対立していることである。はいふりに顕著なのは岬明乃と宗谷ましろの対立であろう。しかし、今回はもう一つの二項対立、つまり「ネコ」と「ネズミ」の二項対立について着目しようと考えている。

ネコとネズミから見るはいふり

「ネコ」と「ネズミ」の2項対立を考える前に、はいふりに登場するそれぞれの要素に関して改めて確認を行おう。

はいふりに出てくるネコたち

はいふりにはネコがたくさん出てくる。大艦長の五十六、多門丸、間宮・明石のネコ。しかし、視点を変えてみると「ミケ」や「シロ」など、晴風クラスにもニックネームが猫の名前になっているキャラが多いことに気づくだろう。実は、晴風クラスの艦橋メンバーと機関科のメンバーはニックネームがすべて人気な猫の名前からとられている節があるのだ。

アイリスオーヤマ株式会社の通販サイトである「アイリスプラザ*1」では毎年人気のある猫の名前ランキングを作っている。はいふり放送の前年である2015年のランキングをここで見てみよう 

1位 モモ

2位 ミルク

3位 ミー

4位 ソラ

5位 ヒメ

5位までを見ても、はいふりのキャラクターのニックネームが4つもある。さらに6位以下を見てみると「リン」「クロ」「ココ」「サクラ」「レオ」「シロ」「モカ」「タマ」「マロン」と次々はいふりキャラの名前が現われる。

はいふりキャラの名前は「理都子」「聡子」といった一般的な女性の名前の中に「麻侖」「麗緒」という若干キラキラネームめいた名前があり、違和感を持った人も多いかもしれない。おそらくこれは艦橋メンバーと機関科メンバーのニックネームをすべてネコの名前に統一したために起きている。幸子を一般的な「さちこ」「ゆきこ」と読ませず「こうこ」としているのも同様の理由からだろう。

このように人の名前に猫の名前を割り当てている事実から、はいふり出てくる「ネコ」というのは実際の猫だけを指しているのではなく、晴風クラスのことを暗示もしていると解釈できる*2

「ネコ=晴風クラス」という等式を頭に入れて、今度はネズミについて見ていく。

はいふりに出てくるネズミたち

はいふりに出てくるネズミは何か?答えは明確だ。事件の原因となったRATtである。「ネズミ=RATt」という等式がまたここで生まれる。そしてネコとネズミの二項対立と同時に晴風クラスとRATtとの二項対立も浮かび上がってくる。

ご存じのとおり、RATtTVシリーズはいふりで事件の原因であり、さるしま、シュペー、伊201、比叡、武蔵・・・晴風クラスと対決した艦船はことごとくRATtの影響で暴走していた*3

はいふりの物語は常に「晴風クラス 対 RATt」「ネコ 対 ネズミ」の構図となっている。ネコは晴風クラスのシンボルであり、ネズミはRATtのシンボルである。そして、はいふりはそれぞれに正反対の概念を付け足していると私は考えている。

 「全体主義の疾患」

RATt自体は研究の際に偶然生まれた生物という説明が作中でされているが、その説明の中で興味深い言葉が画面上に現れる。

全体主義の疾患ー

全体主義」とは「個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制の1つ」である。ここで書かれている「個人の全て」には私生活や個人の権利も含まれてくる。つまり、私生活や権利を犠牲にしてでも国家の継続を優先させる考えである。RATt症候群は症状が進行した場合、個人の意識が完全になくなり、RATtの自己生存本能に従って行動を行うようになる。「全体主義」という言葉は、この症状のことを示していると思われる。

ここで注目したいのは、ネコと対立の関係にあるネズミ=RATtが「全体主義」を表しているとすれば、ネコ=晴風クラスは何を表しているのか、という点である。単純に考えれば、全体主義と逆の主張・・・つまり「個人主義」が該当するだろう。「個人主義」は全体主義と違い、個人の意思や権利を尊重する思想である。確かに晴風クラスはかなり個性的なクラスであるし、クラスメイトの様々な意見を取り入れながら敵を退けてきた。

さて、ここで再び二項対立を整理してみる。

全体主義の疾患を振りまくRATtに対して、個人を尊重して戦い抜いた晴風クラス。これがはいふりにおける戦いの構図なのである。この構図は第二次世界大戦の構図とも重なる部分がある。RATt事件はこの世界における第二次世界大戦の焼き直しとも言えるかもしれない。

構造主義の深淵

先ほどはいふりの戦いは個人主義全体主義の戦いを表しているのだ、という話をした。ここまではアニメ本編の中に実際に「全体主義」という言葉が出てきているためある程度納得のいく内容になっていると思われる。

しかし、最初に記載したとおり、構造主義批評は解釈ではなく構造に着目する批評である。そのため、「作者はそこまで考えていないだろう」というところまで分析を進めてしまう*4はいふりでもそれのマネをしてみよう。

ネコの持つ複数の意味

ネコ=晴風クラスという話をしたが、英語のcatは錨を引き上げるための滑車装置を表す航海用語でもある。ここから航海演習を行う晴風クラスとそれを邪魔するRATtたちという構造も浮かびあがってくる。「錨を引き上げる」ことを「掬い上げる⇒救い上げる」として晴風クラスがみんなを救っていく物語にもなる。両方の解釈で常にネズミ側は敵となる。もともと、航海の歴史から行ってもネズミは船の天敵であったようだ*5

さらにcatにはまた別の意味がある。それは「アメリカ人」である*6。かなりの俗語であるらしい。ここから、全体主義に感染しないアメリカ人と感染してしまったドイツ・日本*7との戦いを艦船に置き換えてはいふりの物語はできているとも言うことができる。RATtに感染しているのは常にドイツか日本の船である。

晴風クラスの中にもいたネズミ

晴風クラスとRATtの関係は、実は晴風クラスの内部にも見ることが可能である。1つは岬明乃と宗谷ましろの関係である。最初期の宗谷ましろは岬明乃からつけられた「シロちゃん」というネコのような名前を拒否するし、五十六を避けたりとネコが苦手な描写がある。さらには「always on the deck」の意味を曲解し、常に艦橋(上の立場)から(下の立場へ)指示を出すべき、という全体主義的な傾向の発言も見せる。

第七話では岬明乃から「シロちゃん」というネコに関連した名前ですら呼ばれなくなり、危機的な状態になる。ところが海難救助で実際に(下の立場として)現場に出ること、そしてそこで多門丸と出会いネコへの苦手を克服することによってRATt側ではなく晴風クラス側として復帰することができたのである。

この第七話では岬明乃に五十六がいるように、宗谷ましろにも多門丸が付いてくることで、彼女が完全に晴風クラス側になったことを強調している。

 

晴風クラスの中のRATt、もう一人は立石志摩である。作中で唯一RATtに感染してしまった晴風クラスのキャラになる。立石志摩は感染後、間宮・明石に攻撃するため機銃の場所まで駆け上がる(上の立場への移動)。これは個人主義から全体主義への転化を表現している。そして、最後は海に落とされて正気に戻る(下の立場への移動)。

さらに着目すべきは海に落としたキャラがミーナであるという部分である。立石志摩が晴風クラスの中で唯一RATtに感染したキャラならば、ミーナはRATtに感染したシュペーで唯一感染を免れたキャラである。たとえ個人主義の中にあっても全体主義に取り込まれる危険性を語ると同時に、全体主義に必ず抗えもすることをこの描写は表現しているのである。

おわりに

構造主義批評は決して完璧な批評ではない。しかし、詩・小説に対するとらえ方が科学的であり、学問として受け入れやすい形をしていたために、急速に浸透することになる。

おそらくこの記事で実施した構造主義批評はまだ貧弱なものに過ぎない。これを突き詰めていった場合、もはや物語は複数の構造の詰め合わせと成り果てる。しかし、この批評も物語の新しい見方を発見させてくれる素晴らしい面もある。

構造主義批評で典型的な二項対立について今回は語ったが、他にも構造主義批評の見方はある。だが、連続で構造主義批評だと私もつまらなくなってしまうため、次はまた別方向の批評を行おうと思っている。

*1:https://www.irisplaza.co.jp/media/

*2:この部分は完全に「解釈」になっているため厳密な構造主義批評としては許されない

*3:公式から明言はないが、電子機器が故障していたことからしんばしの座礁にも関係している可能性がある

*4:元々構造主義は「作者は何を考えているか」と言った作者や読者の解釈になる部分を排除しているわけであるが

*5:https://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_073.html

*6:テリーイーグルトン著 文学とは何か(下)第四章ポスト構造主義 より

*7:戦時の日本を全体主義と見なすのは微妙だが