人は女性に生まれるのではない、女性になるのだ
2019年の後半あたりからだったろうか?フェミニズム、フェミニストとされる人たちの主張が大きく取りざたされるようになったのは。本来は精神分析批評の後あたりがこの批評の適当な場所だと思うが、悪目立ちしたくなかったので少しずらした。
今回取り扱うのは「フェミニズム批評」である。女性運動と共に生まれたこの批評で、女性ばかりの作品であるはいふりを読み解いていこう。
フェミニズム批評の誕生
近代の女性運動は以下の3つの段階を経てきている*1。
フェミニズム批評はこのうち2段階目付近で生まれ、文学が普及した女性イメージと戦い、そのイメージを生み出した権威を疑うことが肝要だと考えた。フェミニズムの敵は「本質主義」である。社会や権威が強制する「女性とはこうあるべきだ」「これが女性の本質なのだ」という価値観への抵抗が運動となっている。
そうしたイメージの普及に使用されている文学に対して、家父長的な態度を暴くことに初期のフェミニズム批評は注力した。
この場合のフェミニズム批評は、精神分析批評やマルクス主義批評と同じ方法論をとる。作品を表層と捉え、その裏にある家父長的な考えを読み解こうとするのだ。
はいふり世界は「男女平等」か
フェミニズム批評の代表的なアプローチは、前述したように作品内にある家父長的描写、女性への抑圧が見られる描写について言及することである。その点で言えば、以前戦闘美少女ものとしてのジャンル批評を行った際に若干触れている。
上記記事で私ははいふりの特異性として「男性排除が徹底されていない」という点を挙げている。はいふり世界では女性が活躍する「ブルーマーメイド」と男性が活躍する「ホワイトドルフィン」という組織が別々にあり、その中でブルーマーメイドを目指す晴風クラスの物語がフォーカスされているに過ぎない。
つまり、はいふりでは家父長的な権威がない世界が描かれているのである。
本当にそうだろうか?
もう少し、はいふりの描写を精査していこう。まず第二話。冒頭ではいふり世界についての説明が宗谷家の面々からなされるが、その中で以下のようなセリフがある。
軍事用に建造された多くの船が民間用に転用されたけど、戦争に使わないという象徴として艦長は女性がつとめるようになったんだよね
ブルーマーメイドの創立についての説明セリフであるが、「女性は戦争に参加しないもの」という価値観が、少なくとも過去この世界にはあったということだろう。これは現実の日本でも存在している。防衛省のHPによると自衛隊内の女性隊員の割合は7%程度である*2。もちろんこの結果には価値観以外に男性と女性の身体的な性差も大きく関わってきていると思われる。
ただ、女性が戦場に出ることにより女性が解放される、という考え方は否定的に観られている*3こともあり、これだけで男性の特権化や女性への抑圧を読み取るのは困難だ。
次に第三話を見てみる。第三話では男子校である東舞高の潜水艦との戦いが描かれるが、その際に内田まゆみが以下のセリフを言う。
潜水艦は全部男子校ですもんね
なぜ潜水艦はすべて男子校なのか、という点について作中では言及がない。作品外でも特になかったように記憶している。これを男性が特権化していると受け取ることも可能ではあるが、実際には潜水艦の狭さのせいで女性用トイレを複数設置できないという物理的な理由もあるだろう。
今度は第五話などで描かれる海上安全委員会の様子を見てみよう。各メンバーの顔は良く見えないが、体型や描写から全員男性であると考えられる。現場に女性はいるが、上層部になると男ばかり、というのは男性優位社会の表現そのものだ。実際に現代でも企業の女性役員や女性の国会議員を増やそうとする運動が推進されている。
ただ、この海上安全委員会は最終局面で宗谷校長にすべてをゆだねる判断を下しているため、男性優位の象徴としてはそこまで優秀ではない。
逆に、宗谷ましろの母親である宗谷真雪は3人の娘を産んでからも仕事を続けているという点で「男は仕事、女は家庭」という日本の古い価値観に背いている。はいふりはむしろ徹底して女性に対する固定観念を取り除いているようにも見えるのだ。
しかし、この精査にはある一つの欠点がある。それは精査している私が男だということである。そのため、女性なら気づくはずの性的不平等なシーンなどを見逃している可能性が大いにある。これを発見するには、女性のはいふり批評論者の誕生を待つしかない。
フェミニズム批評への精神分析の応用
フェミニズム批評には精神分析を応用するやり方もある。フロイトはエディプス・コンプレックスをファルス(男根)とその去勢への不安から説明し、今の家父長である父親といずれ家父長になるであろう自分との折り合いをつけてこれを克服すると語る。これにはジェンダー的な考えが見て取れる。
精神分析医のジュリエット・ミッチェルはここでフロイトの語るファルスが身体的な器官そのものの話ではなく、社会的な力やそれに伴う特権のことだと解釈する。この場合去勢も社会的な力の欠如を示した言葉であり、本質的な欠如が性別で決まっているわけではない。
これを使うと、はいふりという物語を権威とその欠如から読み直すことも可能である。
この読み方において、フェミニズムはアナキズムの一種とも捉えることができる。
艦長に憧れる宗谷ましろ
はいふりにおいて権威を持っているもの、それは間違いなく艦長だろう。そして艦長帽はその権威の象徴、いわゆるファルスなのである。そして、権威が欠如していることを象徴する立場が副長だと考えられる。
第二話の宗谷ましろの子供のころの描写を見ると、母の宗谷真雪からかぶせてもらった艦長帽を風で飛ばしてしまう描写がある。これは明確な去勢表現と捉えることができる。また、彼女の中にある権威へのあこがれも第四話で艦長帽をかぶる所作によって表される。
しかし、最終的に宗谷ましろは自分の位置、艦長の女房役としての副長という位置に肯定的になっていると捉えることが可能だ。これはあまり人をの話を聞かず、独断で行動していた岬明乃がクラス全員の意見を聞くように変化していったことも関係しているのだろう。宗谷ましろは完全に権威を放棄したわけではなく、その立ち位置を艦長に近づける形で権威を手に入れているとも言える。岬明乃に関してはちょうど真逆だ。
はいふりは、男性・女性の固定観念の他に権威の固定観念についても希薄な印象を受けると言っていい。
今年の1月18日に公開が差し迫る劇場版。すでに本予告の時点で宗谷ましろに他の艦で艦長をしてみないか、と誘いがかかることが分かっている。ここでいかなる判断をましろが行うのか、フェミニズム批評的にも興味が湧くところである。
他の船の艦長たち
はいふりに出てくる船は晴風だけではない。他の船の艦長、つまり権威のあり方も確認してみよう。
アドミラル・グラーフ・シュペーの艦長テアはRATtウイルスに感染してしまい、副長のミーナを船から脱出させる。その際自らの艦長帽、つまり権威の象徴をミーナに預ける。そして、第九話で救出されるまで艦長帽が彼女に戻ることはなかった。これはRATtに操られ船の長としての権威を失い、また取り戻したことを表しているのだろう。
武蔵に関しては少し違うが、解釈は同じである。知名もえかは作中終始艦長帽は身に着けていた。しかし、実際のところは艦橋に閉じ込められ、その権威を行使することもできない状況に置かれていた。この「捕らわれヒロイン」という立場はそれだけで特権を失った状況を表す典型的なものである。
この類型は古くはギリシア神話のペルセポネや、エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」のキャサリンに見出せる。
シュペーも武蔵も、自らを制御する力ーー特権ーーを失ってしまった。しかし、片や副長が正気で、片や艦長が正気、と状況は異なっている。ここにも晴風と同様に艦長だけ、副長だけでは船は動かない、ということを表しているのではないだろうか。家父長としての艦長、女房役としての副長、そして適度な権威の均衡、それらの重要性をはいふりは訴えているようにも見えるのだ。
おわりに
はいふりは家父長的な描写が少ない。また、特権的な立場である艦長も副長と一緒で初めてその力を行使できる、と示唆されているように見える。最近は日本でも「ポリティカル・コレクトネス」が叫ばれ一部の職業の名前が変わったりしている。そのような趨勢の中で作られたはいふりも影響を受けているのかもしれない。
かつてヴァージニア・ウルフは著書の「自分ひとりの部屋」にて一世紀も経てば女性は保護してもらう性別ではなくなっているだろうと語った。それが1929年のことである。91年経った現在、創作の中では確かに保護してもらう立場に描かれることが少なくなったと、私ははいふりを見ながら言うことができる。
現実の方へのコメントは差し控えようと思う。私にとってはノンフィクションよりフィクションが真実だから。