はいふり批評20 七つの青は今日も世界を包んでいる

国破れて山河在り

ーー杜甫 

批評や哲学というものは、ある思想が生まれてくるとしばらくしてそれに対する反発が起こる。作者や道徳的な意図を探る批評の反発から形式主義批評は生まれ、形式主義批評(特に構造主義)への反発から脱構築が生まれた。さらに後の時代では形式主義/脱構築が考慮しない社会の影響を取り込んだフェミニズム批評やマルクス主義批評が盛んになっていく。

今回取り扱う「エコ批評」もその連綿と続いてきた批評への反発として生まれてきたものになる。

エコ批評が退けるものは何か

「エコ」が指すのは自然環境保全に関係するあの「エコ」である。エコ批評では文学と物理的な環境との関係について研究する。「物理的な環境」というのは、つまり山、森、海などの自然環境のことだ。

この批評は現実が社会的・言語的に構築されていると捉えるそれまでの批評の考えを拒否し、それを包み込んでいる物理的なものに焦点を合わようとする。エコ批評は「人間中心主義」への反発ともいえる。

私は前回「ポストコロニアル批評」をはいふりに試したが、それはまさに「植民地」や「家族」といった社会的に構築されたものを対象としていた。

 

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当然、「植民地」などという概念は人が作ったものに過ぎない。戦前でも占領下でも富士山は変わらず富士山で、姿かたちが変わるようなことはなかった。このようにエコ批評は言葉の上での概念よりも現実に存在しているものに注目する。

エコ批評は批評理論の一つでありながら広く受け入れられている手法やモデルは存在しない。「物理的環境」「自然」という今までの批評で十分に検討していなかった部分に目を向けるという”アプローチ”がこの批評の特徴になってくる。

はいふりに対するエコ批評の適用

それでははいふりにエコ批評を適用させていく。はいふりにおける物理的環境とは何か?おそらく誰もが「海」を挙げることだろう。私もまったく異論がないし、この作品において海をないがしろにしてエコ批評を進めるのはひねくれ過ぎている。

海を舞台とした物語

はいふりと海は間違いなく切っても切れない関係で結ばれている。出港から始まり、帰港で幕を閉じる物語、それがはいふりだからだ。

まずは、はいふりの海が「どのような自然」なのかを確認しよう。対象の自然がどの程度純粋なのかを4つの領域に分けて考える方法がある*1

  • 領域1「荒野」(砂漠、大洋、人の住まない大地)
  • 領域2「崇高な風景」(森林、湖、山)
  • 領域3「田舎」(丘、野原、林)
  • 領域4「日常空間」(公園、庭園、小径)

領域1が最も純粋な自然の状態であり、徐々に文化的な影響が増えていき領域4に至る。はいふりの舞台となるのはそのほとんどが海、つまり領域1となる。海は砂漠といくつかの特徴を共にする。人口密度が極めて低く、飲み水と食料に乏しい。人が単独、あるいは小さな集団で生きていくのは不可能な死の世界、それが海である。

それゆえか、物語に登場する海は人間の限界やその力を試すような立ち回りをする。ハーマン・メルヴィルの「白鯨」やアーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」などがその典型的なものと言えるだろう。

この観点ではいふりを見てみると、古典的な「海」とは異なる描かれ方をしていることに気づく。確かに彼女たちは海の上で様々な危機に遭遇する。しかし、その危機の大半の原因はRATtという人が作り出したものであり、海は関係がない。むしろ、RATtは海水(海)を弱点とさえしていた。

第四話のトイレットペーパー不足、第七話の水不足も危機的な状況にはつながらず、第六話の機雷についても人的原因の危機である。

この古典作品との差異は、はいふりという作品にとっての「海」の在り方が関係していると思われる。つまり、はいふりにとって海とは純粋な自然の「領域1」ではなく、人が実際に生活を営む「領域4」に近い空間なのだ。

実際、晴風クラスのメンバーは海の上で生活するのはもちろん、海水浴やパラセーリングを楽しんだり、お祭りを始めたりしていた。また、公式の設定になるが、キャラクターの中には出身地が船の上になっている者もおり、この世界の生活が海により近いことを想像させる。

はいふりにとっての海とは何か

「領域4」が舞台になる物語では家族や家庭を描いたフィクション、抒情詩など人間同士の関係が中心に描かれる傾向にある。はいふりもその例に漏れない作品と言えるだろう。

実際に、はいふりでは海の上で晴風クラスの絆が培われていった。この点で、はいふり本編で特徴的なセリフが一つある。第一話で別々のクラスになってしまったことを残念がる知名もえかに、岬明乃が言ったセリフだ。

大丈夫だよ、船は別々だけど…でも、同じ海の上だもん

よく「同じ空の下」という表現が現実では使われるが、上のセリフは生活と海が近いこの作品ならではの言い回しだろう。そして同時に、この作品にとっての「海」を正確に表現しているセリフでもある。

同じ海の上で岬明乃と知名もえかがつながっているように、海は様々なものを「つなげて」いる。それは物理的・精神的、良い・悪いを問わない。

幼い岬明乃は海難事故に遭い両親を失ったが、養護施設に入ったことで知名もえかとつながり、家族のつながりを求めて海へと戻る。晴風クラスは別々の出身から海やブルーマーメイドといった共通の目的のためにつながっていく。最初はバラバラだった晴風クラスは航海の末に一致団結し、一つの事件を解決する。

逆に、海はRATtのような危機を晴風に運んでくることもあった。武蔵のような艦艇がどの国にでも行けるという危機的な状況は海がすべてをつなげてしまうことの弊害でもある。そのことが、「自国の権益を守るために」行われる機雷敷設という、第六話の状況にもつながってくる。

 

「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。数万年、十数万年前…時期ははっきりとはしないが、現生人類はアフリカの地を離れていった。なぜ離れたかは歴史や人類学の分野になるのでここでは省くが、その際に主に使われたのは海路だったという*2

前人未到の陸地を野獣などの危機におびえながら進むよりも、陸地を横に見ながら丸太船で海路を進んだ方がずっと確実だったのだ。

はいふりの海は、様々なものを「つなげていく」という原始的な役割を担う場所なのである。海なしでの航海は成り立たないように、この作品のあらゆるつながりは海なしでは成り立たない。海に包まれているはいふりの物語は、おのずとその特性が強く反映され、また前景化されていたのである。

おわりに

今回の批評はいつもよりも短めにまとめてみた。どうやら手短さと簡潔さこそがエコ批評の美徳であるらしいが、理由は知らない。

エコ批評の本質は、ただ自然に目を向けるというだけではなく今までの批評で注目されていなかったことに注目し、「批評を裏返す」ことにある。この考えを使えば、さらに別の批評を行うことも可能だろう。

次は、一般的な批評理論ではないものを試してみようと思う。

*1:ピーター・バリー著『文学理論講義』

*2:出口治明著『「全世界史」講義I古代・中世編』