「はいふり」改め「ハイスクール・フリート」
ーーハイスクール・フリート公式
2020年1月12日、記念艦三笠で先行上映された劇場版ハイスクール・フリートを見てきた。最後A-1 Picturesの柏田さんがでてきて作画の謝罪をしたのには笑ったが、とにかく劇場版の批評を軽くしていこうと思う。
当然劇場版のネタバレを含むので、見ていない方は絶対に読み進めないようにしていただきたい。
最初に、この批評はおそらく私が今までやってきた中の批評のどれにも当てはまらない。批評理論が誕生する前の批評…印象だけで語る印象批評や、道徳的な教訓を読み取る道徳批評*1に該当するだろう。
宗谷ましろの物語
TVアニメのハイスクール・フリートが岬明乃の物語だったとすれば、劇場版ハイスクール・フリートは宗谷ましろの物語である。そして、この物語で重要になってくるのは「姉」という存在だ。
「姉」という存在
比叡の艦長にならないか、と古庄教官から言われたましろは自分の行動に悩む。彼女の心の中にあるのは艦長として活躍する母の姿なのだろう。TVシリーズでも艦長帽に憧れを抱く彼女の心は描かれていた。その悩みを抱えたまま、宗谷ましろは岬明乃とスーザンと一緒に野宿をする。川の字になって寝るときに回想されるのは、かつて姉たちと同じように川の字で眠った日のことだ。そこで幼いましろは「自分は艦長になる」という意志をはっきりと語る。
しかし、今はどうだろう。姉2人は確かに艦長になれた*2。だが、ましろは航洋艦の副長である。そして、TVシリーズで描かれたように、彼女はそれにコンプレックスを持っている。
競闘遊戯会でミスをしてしまった宗谷ましろは現在の武蔵艦長である知名もえかに声をかける。そして、TVシリーズの古庄教官のように彼女にとっての艦長像を聞くのだ。そこで帰ってきたのは「船の中のお姉さん」というものだった。
かつて武蔵の艦長だった2人の姉と、「お姉さんになりたい」と語る今の武蔵艦長。劇場版において、「姉」は宗谷ましろが目指すべき場所、概念となっている。
海賊の海上要塞乗っ取りが発生した際、作戦指揮は武蔵に乗り込んだ宗谷真霜によって行われる。知名もえかと宗谷真霜が乗り込んだ武蔵は、ここで完全に「姉」の象徴となった。そして、その武蔵の染色弾に導かれれて、晴風は…ましろは海上要塞へと突入していくのである。
ここまではましろは姉の庇護下にある、と解釈してよいだろう。しかし、そのあと海上要塞内での戦いに武蔵は関与できない。姉の庇護下から外れることを表すように、突入時に晴風は「見張り台」を喪失する。
その後、晴風は見事に作戦を成功させるが、脱出のための出口がふさがってしまう。武蔵も砲撃で支援を行うが、それでも道は閉ざされたままだ。そして、このタイミングでついにましろは動くのである。スキッパーに乗り込み、晴風の退路のためにふさがった岩壁に体当たりをしかけ、見事成功させる。
武蔵が、「姉」が作れなかった活路を自ら開くことで、宗谷ましろは自らのコンプレックスを乗り越えたのではないかと考える。
だからこそ、自分の思いを岬明乃に伝えるのはこの作戦終了後になるのである。彼女は「姉」とは違う方法で艦長を目指すと決めた。これからは、自分自身の道を歩んでいくことになるのだろう。
劇中劇で語られる宗谷ましろの心
劇場版の中で、納沙幸子とヴィルヘルミーナが共同で作った仁義がない感じの映画が流れる。そこには岬明乃と宗谷ましろも出演しているのであるが、このシーンも非常に興味深い。
2人が演じているシーンはまさに「仁義なき戦い」の第一作目での終盤シーンのパロディだ。宗谷ましろが演じる坂井鉄也は、度重なる仲間うちの闘争で疲れてしまい極道を止めたいと口走る。それを聞いた岬明乃演じる広能昌三はこう答える*3
最後じゃけ 言うとったるがのう
そがな 考え方しとったら 隙ができるぞ
しかし、実際の「仁義なき戦い」では1行目と2行目の間に別のセリフが入る。それが以下のものだ。
狙われるもんより、狙うもんの方が強いんじゃ
TVシリーズで納沙幸子も言っていたあのセリフである。そして「仁義なき戦い」ではこのシーンの後、坂井鉄也は追手によって殺されてしまう。この劇中劇は宗谷ましろの今の状況を表しているのではないかと、私は考えている。
宗谷ましろは常に前を行く母や姉を見て、彼女たちを目標としていた。しかし、実際のところ宗谷ましろは母たちを追っていたのではなく「追われて」いたのではないか? 「来島の巴御前」という異名を持つ母親に、武蔵の艦長をつとめた姉たち。その影に追われているのが、TVシリーズと劇場版前半のましろなのである。
もし、母や姉の影に捕らわれたままであれば、彼女の演じた坂井鉄也と同様、その追手に殺されてしまうだろう。しかし先ほど述べたように、ましろはその影を振り払い自分だけの道を歩むことに決めたのだ。
こうした作品内に埋め込まれた物語が作品全体を示唆している、というのは良くある物語の形式である。
スーザン・レジェスについて
劇場版からの新キャラクター「スーザン・レジェス」についても宗谷ましろと大きく関わりのあるキャラクターだと言えるだろう。
劇場版における彼女の役割、それは宗谷ましろの分身である。
スーザンには母親と兄弟(姉妹?兄妹?姉弟?)がいるという設定であり、ましろの境遇と似ている。さらに、彼女は父親を探している。ここで、改めてはいふりにおける「父親」を思い出してみよう。それは岬明乃の艦長像の「父親」である。
劇場版において、スーザンは「艦長(父親)を目指す宗谷ましろ」の隠喩なのだ。
スーザンは父親を探している。そして、それをどのように達成しようとしたか?知らなかったとはいえ、海賊に手を貸すことによってである。彼女は早急に父親に会うために、誤った道を進んでしまった。
そして、宗谷ましろも同様の過ちを犯しそうになる。艦長になるべきか、ならざるべきか?悩んだ彼女は図上演習で岬明乃に勝利し、その勝利を持って艦長になろうとするのだ。彼女は、自らの実力を十分に発揮し、岬明乃にあと一歩で勝利というところまで迫っていく。だが、その達成は同じように早急に父親(艦長)を目指したスーザンの失敗によって遮られるのである。
その後、海上要塞に突入した宗谷ましろは、次々とやってくるピンチを切り抜ける岬明乃を目にすることになる。特に重要なのは爆雷を使用した砲塔破壊のシーンだ。宗谷ましろはその成功に目を見開く。おそらく、この時点で彼女は進退を決めたのだろう。図上演習ではなく、実践において自分が岬明乃に及ばない部分。それを見極めようと狭い通路での砲座対応時に、宗谷ましろは岬明乃の判断をうかがうように目線を動かす。
最後に宗谷ましろが下す決断は、「自分はまだ艦長には不適格。だが、晴風クラスで経験を積んでいつか艦長になって見せる」というものだった。これは上記の図上演習に勝利し、そのまま艦長になっていれば得られなかった答えだろう*4。
スーザンは劇中で艦長を目指そうとする宗谷ましろの間違った未来を暗示し、そして同時にその決断をサポートする役割を果たしていたのである。そして、この解釈に従えば、道は遠くてもいつか必ずスーザンは父親に巡り合うことができるのだ。
劇場版のジャンルを探る
ここからは定番のジャンル批評を行っていこうと思う。
劇場版も「お仕事」アニメだった
TVシリーズがお仕事アニメだったというのは以前のジャンル批評で私が出した結論であった。しかし、機雷掃海、海難救助、赤道祭などで海上自衛隊・海上保安庁の仕事と文化を網羅しているわけではない。
今回スポットが当たったのは2つ。競闘遊戯会と海賊対処である。
競闘遊戯というのは1870年代に海軍兵学寮で行われたとされている行事で、日本の運動会の始まりと言われている*5。海上自衛隊や海上保安庁の行事とは違っているが、これも海軍の文化だったわけである。
ちなみに、運動会の始まりという意味ではもっと古いものが指摘されており、それが1860年代に横須賀製鉄所で行われたものだというのも興味深い*6。
この競闘遊戯会は劇場版前半を占める出来事になる。そして、後半を占めるのが海賊対処だ。
明確な敵が描かれなかったTVシリーズとは変わって、今回の元凶は明確に悪としての海賊である。スーザンをだまして海上要塞の完成を目論んだが、晴風などの活躍によって阻止された。
今回の描写で特徴的なのは2方面作戦にしてブルーマーメイドの見せ場も作っていたところだろう。TVシリーズでは展開上どうしても活躍できなかった本職の仕事ぶりをぜひ劇場で見ていただきたい(ひとりはっちゃけてる人がいるが)。
前半は海軍ゆかりの行事、後半はTVシリーズで描写できなかった海賊対処の仕事。劇場版は全編通して仕事を描いていたと言えるだろう。やはりTVシリーズと同様、劇場版もお仕事アニメだったと言える。
劇場版はミリタリーアニメか
さて、はいふりを語る上でやはりミリタリーの話は避けて通れないだろう。
しかし、私はミリタリーに対して門外漢であるから、ここでは特に印象に残った点についてだけ書いておこうと思う。
はいふりという作品の特徴的なところは、史実だとすでに存在しない艦艇が今なお現役であるという点に尽きるだろう。また、史実では作られなかった艦艇も存在している*7。
今回劇場版で表現されるのは、そのロマンの一つ。大和型4隻による統制射撃である。おそらく、この描写がある映像作品は今後生まれることはないだろう。また、弾着観測を伊201で行っているのも面白かった。艦これを嗜んでいる私からすると飛行機の役割だと思っていたので驚いた。
また、海上要塞での怒涛の展開の中にもニヤリとできるシーンがある。私が気づいたのは駆逐艦「嵐」のエピソードをオマージュしたものと思われる爆雷の使い方である。さらに、あの魚雷も…私は兵器には詳しくはないがはいふりのことだ、きっと史実では計画倒れで終わったか、少量生産されて消えた兵器なのだろうと思う。こういった遊びができるのも、はいふりの素敵なところである。
また、晴風のバック航行が見れたのは面白かった。できるのは知っていたが、実際に船のバック航行を映像で見たのは初めてだった。
おそらく、ミリタリーに詳しい人であればさらに多くのこだわりポイントを発見できるのではないかと思う。そう言った意味でも、劇場版はミリタリーアニメとしてしっかりと成立していたと感じている。
その他雑感
砲術員、大活躍!
TVシリーズではデカくて堅い相手ばかりであまり活躍できなかった砲術員であったが、今回は大活躍だった。また、活躍以外の場所でも大和型主砲の射程についてマラソンや横須賀~品川などの言いかえを用いて説明していたり、作中で存在感を放っていたように思う。
TVシリーズとのアイロニー
晴風が作戦行動中のワンシーンだが、皆が食堂で食べているときに黒木洋美が艦橋の宗谷ましろにご飯を届けに行く。これはTVアニメ2話のシーンと意図的に状況を重ねていると思われる。
TVアニメの時と違うのは、明乃ではなくましろの方が悩みを抱えているということだ。この違いが一層ましろの悩みを浮き彫りにさせる。また、明乃と表裏一体の関係であることの表現にもなっている。個人的に非常にいいシーンだと思う。
夕焼けと朝焼け
劇場版で個人的に好きな部分は他にもある。宗谷ましろの悩みは夕暮れ時にはじまり、その悩みが解決するのは朝焼けのシーンとなっている。非常にオーソドックスな表現だとは思うが、最初の夕暮れの色と最後の朝焼けの色の対比が美しい。ぜひ劇場で見ていただきたい。
海の安全絶対守るマン「海上安全委員会」
好きな部分ではなく印象に残った部分もある。劇中で宗谷校長とやり取りしている、海上安全委員会のおえらいさん(たぶん)である。
TVシリーズから見ていると「相変わらず」であり、そしてより強硬で強迫的な性格が見えてくる。そもそも学生艦が反乱を起こした情報を掴んだすぐ後には撃沈許可を出しているような奴らである。とにかく「海の安全」を脅かすものに対して一切の容赦がない。
今回の作戦でもブルーマーメイドが使えなくなったら学生を動員して事に当たらせる、「人質の救助は最優先だが、要塞とプラントとの合流は絶対に阻止しろ」などと言って遠まわしに「人質を犠牲にしてもかまわない」ことを仄めかすなどその片鱗を見せている。
海上安全委員会は物語でよく出てくる「無能な上司」ではない。彼らは迷わない。彼らの答えはすでに出ている。「何を使ってもいいから海の安全は死守する」。敵ではないが味方とも言い難い。不思議な存在である。
終わりに
2周年イベントでの発表から2年経ってしまったが、ついに劇場版公開である。
OVAで真っ当に続編アニメを作ったはいふりの劇場版は、やはり真っ当に続編アニメであった。アニメの中ではハチャメチャにやっているのに、全体を見てみると非常にまじめに話を進めている、というのがある意味はいふりの特徴なのかもしれない。
今回は軽く触れただけになったが、従来の批評理論を適用してこの劇場版を見ていくのも非常に興味を惹かれる。だが、二兎を追う者は一兎をも得ず。当分はTVシリーズの批評を飽きるまでやり続けようと思う。
*2:漫画版などで語られている
*3:ちょっとうろ覚えだが、勘弁してほしい
*4:とはいうものの、正直私はあの時点で艦長になっていても、ましろは十二分にやって行けただろうと思う。そもそもあの海上要塞に突入して生きて帰ってこられるチームがどのくらいあるのか?上を見過ぎな気がしてならない。もっと自信を持って!
*5:https://libopac.fukuoka-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10780/736/1/hirata_39_4.pdf
*6:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/63/2/63_2_129/_pdf
*7:その逆も然りであるが