全体は部分の総和にあらず(The whole is greater than the sum of its parts.)
ーーアリストテレス
世界の神話や昔話の中には、不思議な共通項を持っているものが多い。「母親が死んだあと、腹から生まれてきた英雄」というパターンの話は日本中に広く分布し、また中国にも似たような話があるという*1。
今回進めていくのはこのような「物語の構造」を取り扱う批評。「物語論批評」である。ケーキにナイフを入れてその断面図を観察するように、はいふりという物語が一体どのようにできているのか見ていこう。
組み替えられる物語
物語論とは「物語のまとめ方」について研究を行う分野である。
その基本は物語の「ストーリー」と「プロット」を区別することにある。「ストーリー」とは時系列順に起こったことを並べた物語内容のことで、「プロット」とは実際に語られる順番にストーリーを再編成したものだ。
例えば、はいふりのストーリーは以下のようになるだろう。
- 幼い岬明乃が海難事故で両親を失う
- 養護施設に入った岬明乃が知名もえかから母親の話を聞く
- 岬明乃と知名もえかが大和を見に行き、将来の誓いをたてる
もしかすると2~3のあたりに諏訪神社で帽子を飛ばされる宗谷ましろの話が入ってくるかもしれないが、こんなところだろう。では、プロットはどうなっていたか。
このようにストーリーとプロットは大きく異なっている。では、このプロットによっていかなる効果が物語に与えられるのか見ていこう。
隠された武蔵の出来事
作中で最後まで分からなかったことは武蔵で何が起こったのか、ということだろう。第十一話で武蔵艦橋での出来事が初めて描写されるが、その時系列は航海実習で西ノ島新島に集まる前日のこと。つまり、第一話のAパートからBパートの間に起こった出来事なのである。
それまでは第二話の武蔵からの無線と第五話で艦橋から帽子を振っている知名もえかの姿だけが情報のすべてであった。この「武蔵の真実」をクライマックスまで秘密にした、その意味と効果は何だろうか?
仮に視聴者が時系列通りにはいふりを見たとしよう。第一話Aパートの後、武蔵が混乱に陥り知名もえかが艦橋に立てこもる。そしてBパートで晴風がさるしまからの砲撃を受けることになる。
この時大きく違うのは視聴者はすでに晴風クラスの知らない情報を知っている点だろう。武蔵の映像を見た後にさるしまからの砲撃があれば、少なくとも「演習の一環かもしれない」という選択肢はなくなるし、「何かの陰謀に巻き込まれた」可能性も低いと見積もるだろう。
このように時系列順にみたとき、視聴者は否応なく晴風クラスを客観的にみる立場に置かれることになる。そこには、晴風クラスと一緒にこの事件の真相を考えるという視聴体験は存在しない。
はいふりのプロットの組み換えは視聴者と晴風クラスの情報量を同じにして、「晴風での出来事」に没入することを目的としているのではないか。私たちはこれにより、晴風クラスと「一緒に航海」することが可能になっているのである。
隠された岬明乃の出来事
はいふりのプロットは「晴風での出来事」に没入させるためにあった、と先ほど語った。しかし、その中において1点だけ、岬明乃と視聴者の間で情報量が異なっている点がある。そう、岬明乃の過去を視聴者は第七話まで知らされないままになるのだ。
これによる効果としては第五話の受け取り方の変化が挙げられるだろう。もし岬明乃が海難事故で両親を失い、養護施設で知名もえかと出会い親友になったことを事前に視聴者が知っていれば、第五話の行動にも同情の声が多くなったかもしれない。
また、視聴者はすでに第二話の非常通信が罠でもなく真実なこと、知名もえかは艦橋に立てこもって救助を待っていることも知っていることになる。この情報量の違いも岬明乃の行動を納得する理由になりうるだろう。
つまり、この組み換えは「岬明乃の失敗」を強調するためのものなのだ。ここで失敗をさせないと晴風クラス一丸となって成功させた比叡の座礁作戦や、第十一話で心が折れてから復活する岬明乃のシーンの意味が薄くなる。このプロットはのちの成功のために視聴者に失敗を印象付けるためにあったのである。
宗谷ましろの重要性
ここまではいふりのプロットを検討した中で、宗谷ましろが物語の中で重要なポジションにいると気づかされた。宗谷ましろは岬明乃と違い、過去が第二話の時点で開示され、早々に情報量が視聴者と同じ状態になる。また論理的(のよう)な考えで提案を行うために視聴者の共感も得られやすかった。彼女がいたおかげで第五話の岬明乃の失敗も正当に非難され、その後の物語の盛り上げにも貢献している。
物語論の大家であるジェラール・ジュネットは「誰によって語られているか」と「誰が見ているか」を区別して考えた。「誰が見ているか」は「焦点化」と呼ばれるが、その焦点が登場人物側にある形式を「内的焦点化」、逆に登場人物の誰でもない場合を「外的焦点化」と呼ぶ。
アニメの場合は客観的な視点からキャラの発言と行動を見るため、多くの場合外的焦点化されている。ただ、「涼宮ハルヒの憂鬱」のように常に主人公であるキョンから視点を動かさず、モノローグもキョンのみ、という形で内的焦点化を実現することも可能だ。
はいふりは物語の中で内的焦点化されたキャラが移り変わっている作品である。特に第四話などは顕著で、艦に残った宗谷ましろの行動と心境を中心にして、買い物をしている岬明乃と視点を切り替えながら物語が進む。このように複数の人物で視点を変えていく手法は「不定内的焦点化」と呼ばれる。
この視点の切り替えは作中通して岬明乃と宗谷ましろに多く見られるものだ。これは宗谷ましろが岬明乃と比肩する重要性を持っていることを示唆しているように思える。焦点化を考えた場合、宗谷ましろはまさしくこの物語のもう一人の主人公とも言えるのだ。
奇妙な省略法の果てに
先ほども出てきたジュネットは物語がいかに語られるか、という点に注目し物語論の軸になる概念をいくつも作り出した。その中に物語の時間に関するものもある。ジュネットは物語の速度について、以下の4つの形式を挙げている。
- 省略法:時間を一気に飛び越える方法(2年後、など)
- 要約法:飛び越えた時間で起きたことを要約して伝える方法
- 情景法:物語内の時間と語っている時間が同じ場合
- 休止法:物語の時間を止めて説明や別シーンを見せる方法
今回注目したいのは省略法とその使い方である。はいふりでは省略法が作中で頻繁に使用される。しかも、使い方が独特だ。その大部分が「4月22日 20:30」と絶対時間で表現されている。しかも、わざわざ現在時刻まで見せているのである。私が確認した限り、例外は第一話冒頭の「9年後」と第十話で赤道祭当日まで飛ぶ際の「2日後」のみだ。
これは一体何なのだろうか。
わかりづらい絶対時間
正直、絶対時間はアニメで使うのにはわかりづらい表現である。
例えば、先ほどの「4月22日 20:30」というのは第七話のAパート初めに出てくる時間だ。そのあと、節水を決めて画面が切り替わり「4月25日 10:40」と文字が出てくる。そう、一気に3日後になっているのである。だが、一回見て「3日後になったのだな」とすぐ理解できる人は少ないだろう。たいていはその前に出てきた日付を覚えていない。わかりやすく「3日後」ではダメだったのか?
時刻もそうである。「4月22日 20:30」の場面では艦橋から闇夜が見えるため、わざわざ時刻を申告してもらわなくても夜だと理解できる。時間を用いた叙述トリックでもあるのかといえば、そうでもない。
この不可思議な省略法は何のためにあるのかを考えてみたが、おそらくこのはいふりの物語自体が「航海日誌」になっているためではないかと思われる。日付と時刻で航海中に起こったことを記載していく航海日誌のように、はいふりも日時を絶対時間で表現しているのだ。だからこそ先ほど触れた2件の例外のように、航海していないときの時間表現は相対時間になるのではないだろうか。
これはプロットについての考えとも一致する。情報量をそろえて晴風クラスと一緒に航海をしている視聴者は、それと同時にはいふりという航海日誌を覗き見ているのだ。
物語論で作品のおもしろさを語れるか
物語論は形式主義的なものなので、物語構造を分析した後にその効果などを検討するようなことは本来はやらない。先ほどまで私が効果についての検討を行ったのは、やりすぎだったと言えるだろう。
それにも関わらず、物語論の話が出てくると「おもしろい物語とはどういったものか」といった話に発展しがちなようである。ある物語構造がおもしろさを作り出すというのは個人的には眉唾物だと思っている。それさえ分かっていれば無限に面白い作品が作り出せるはずだが、それは直観に反している*2。
しかし、興味深い逸話もある。以前も名前がでたジークムント・フロイトがひ孫の遊びを観察していた時のことだった。その子は紐を巻き付けた糸巻きを放り投げて「いない!」と声を上げ、次に紐を引っ張って糸巻きを回収し「いた!」と叫んだ*3。
フロイトはこれを母親がいないことを埋め合わせる象徴的行動と解釈した。さらに文芸批評家のテリー・イーグルトンはこれが物語発生の萌芽だと指摘する*4。何かが失われているという喪失感・不安感が、元の場所に戻ってくるのを発見することで安心感や心地よさに変わるのだ。
ここでは喪失⇒回復という単純な物語構造が快楽を、つまり面白さを生んでいると示唆されている。こうした物語論と精神分析とのつながりを見ると、ある程度は物語構造が面白さを生むということを認めていい気がしてくる。
それでは、この構造をはいふりにも適用してみよう。
喪失⇒回復でみたはいふり
大体の物語は喪失⇒回復の形に乗っ取っている。「千と千尋の神隠し」で千尋は最初に両親を豚に変えられ、最後には取り戻す。「ガールズ&パンツァー」では弱小の大洗女子学園が全国大会で優勝する。では、はいふりではどうだろう。
今まで様々な批評を試みて、はいふりの物語の中には多くの喪失⇒回復が含まれていることが分かっている。
さて、これだけ見るとはいふりには多くの喪失⇒回復が描かれているため、より多くの面白さがあると言えるだろう。しかし、それにしては奇妙である。これほど多くの喪失⇒回復が描かれているのであれば、はいふりは他のアニメなど及びもつかないほど面白い作品となってしまう。もちろん私ははいふりを面白い作品だと思っているが、その面白さがはいふり以外をまるで寄せ付けないほどだとは思っていない。
一つの仮説を立ててみるが、おそらく「喪失」は物語の最初に提示されていなければその効果が薄れるのである。テリー・イーグルトンも以下のように述べている。
物語があたえるサスペンスや反覆に、私たちが自分のエネルギーを「拘束する」のは、それが、いずれ快感をもたらすようエネルギーが消費される準備段階だと納得してのことである。
人は最初の喪失が最後の回復によって快感に変わることを期待する。そのためには最初の喪失を認識し、最後に訪れる回復を予想する必要がある。
しかしはいふりにおいて最初から認識できる喪失は「バラバラだった晴風クラス」くらいだろう。家族の喪失は第七話で初めて明らかになるし、艦長としての不安は第五話から表面化する。結果、喪失⇒回復を1つしか認識できないはいふりは、他アニメと比較して飛びぬけて面白いということにはなっていないのである。
逆に最初に陰謀に巻き込まれたものと期待をしていた視聴者は、それが第四話で霧散してしまったことに大きな不満を抱いたかもしれない。これもはいふりの評価が二分している原因の一つになっているように思われる。
おわりに
「はいふりとは晴風クラスの航海日誌であり、視聴者もまた晴風クラスとともに旅をした一員なのである」。私が物語論批評を行った結果として言いたいのは以上のことである。
物語構造がいかに快感を引き出すのか、という問題に関してはさらなる研究が必要な分野だろう。おそらく物語論だけではなく文体論なども組み合わせる必要があると思われるが、ひとまず今はこの辺りで筆を置くことにする。