あなたに冰剣の魔術師の本質を見せよう
―—御子柴奈々「冰剣の魔術師が世界を統べる」
貴方はもう見ただろうか?「冰剣の魔術師が世界を統べる」を。元はなろうに連載されていたライトノベルのアニメ化作品であり、2023年冬アニメとして放送された。
ギャグとシリアスを絶妙にブレンドした空前絶後で超絶怒涛の本質アニメーションである本作を見て、私はこの作品をベースにはいふり批評が出来るのではないかと思い至った。
今回はこの批評、「冰剣批評」を試していきたいと思う。
※この批評はTVアニメ「冰剣の魔術師が世界を統べる」のネタバレが含まれるため、気を付けてください※
アニメの和音
まずは「冰剣批評」という私が勝手に名前を付けた批評について説明を行わなければならない。だが、その前にTVアニメ「冰剣の魔術師が世界を統べる」の特徴について説明をさせていただきたい。
冰剣を語るとき、最初に何に言及すべきだろうか。しっかりと練られたストーリー?予想外のところから飛んでくるギャグ?独特のセリフ回し?それともグレイ教諭の顔芸についてだろうか?
そのどれもが語るに値する。という前提で「OP/ED入りの演出」が最も特徴的であるとここで主張しよう。見た人は誰でも知っているが、冰剣のOP/EDは両方とも本編と曲のイントロが重なる演出となっている。この演出で有名なのは「シティーハンター」のEDで流れる「GetWild」だろう。
シティーハンターのEDへの流れはおおむね以下のようになっている。
- 決着がつき、GetWildのイントロが流れはじめる
- 冴羽亮が粋なセリフを美女に言う
- 冴羽亮が歩き出し、画面が止まる
- 画面が引き、立ち去る冴羽亮とそれを見つめる美女の構図が完成する
- EDアニメが開始される
GetWildのイントロが流れ出し、その盛り上がりと冴羽亮のセリフが重なり合う。そしてその最高潮でEDに切り替わり歌がはじまる。この映像には得も言われぬ快楽がある。映像と音が重なり合ったときに生まれるこのハーモニー、映像と音の「和音」とも呼べる現象がここにある。
同様の演出が冰剣にもある。毎回素晴らしいOP/EDの入りを見せてくれる冰剣だが、その中でも今回は4話のラストをピックアップしよう。この回は敵であることが判明したグレイ教諭がついに切り札を使うところでEDとなる。
- グレイ教諭が命乞いをやめた後、ラウドヘイラーのイントロが流れはじめる
- 音楽に合わせて小気味よくグレイ教諭が自分の脳に針をぶち込む
- グレイ教諭が化け物に変わり、音楽がサビ前の盛り上がりをみせる
- サビとともに画面が切り替わりヒロインの下着姿が映される
この流れも映像と音の「和音」が私たちに快楽を与えてくれている。さらにサビの直前とサビの映像との温度差で笑いも誘う。奇妙な満足感のある構成である。冰剣には他にも映像と音との重なりで笑わせたり熱くさせたりと、この「和音」を上手に使っているのでぜひ見てほしい。
さて、長々とはいふり以外のアニメの話をしてしまったが、そもそもはいふりはOPもEDも上記のアニメのような構成をとっていない。イントロなどが本編にはみ出すことなく、独立で映像として成立している。であれば、この部分に注目しても意味がない。
いや、まて。
この冰剣はアトリビュートであり、本質ではない
貴方にもレイ・ホワイトの声が聞こえただろうか?そう、「本編とOP/EDのイントロが重なる演出」はアトリビュートであり、本質ではない。では本質とは何か?それこそが映像と音が織りなす「和音」なのである。
この「和音」がTVアニメ「冰剣の魔術師が世界を統べる」の本質であり、アニメという媒体そのものの本質である。と言う主張が「冰剣批評」なのである。今からそれをはいふりにも応用して作品を読み解こうというわけだ。
はいふりの和音
映像と音の重なり、と一言で言ってもアニメの音は色々ある。OP/ED、BGM、SE、キャラのセリフだ。この中で今回はOP/ED、SE、キャラのセリフに関して見ていきたいと思う。
OP/EDとの重なり
先ほどはいふりのOP/EDは本編から独立していると述べたが例外がある。それが第十二話だ。この話ではクライマックスとなるシーンでOPが使われ、EDも本編にかかった形で使われる。ここでは特にEDのほうに着目しよう。
はいふりのED「Ripple Effect」は個人的な意見を言うとEDにふさわしい落ち着いた曲である。作品の最後で「今日もはいふり最高だったな……」感を見事に演出してくれる。この曲が第十二話でもEDとして使われるわけだが、その曲の入りが本編にかかるようになっている。
沈みゆく晴風を見つめる岬明乃の表情から悲しみから決意へと変わり、今まで共に戦った自分たちの船に対して敬礼をする。EDがかかりはじめるのはちょうど3枚目のカット、岬明乃の敬礼までの動きの始発点だ。このタイミングが実にいい。溜めていた感動が堰を切って流れ出す、そんな効果がこのタイミングには宿っている。
OP/EDは毎回アニメで流れることになる曲であり、これを「いつもと少し変える」だけで十分な効果が狙える。だが、視聴者のクールな心をホットにするにはただ流すだけではだめなのだ。直前の表情の変化のカット、あるいは直後の敬礼が完成するカット、そのどちらにずらしたとしても痺れるような感動を味わうことはできなかったのではないかと私は思う。
この絶妙さを表す言葉を今の私は持っていないがここに映像と音の「和音」があるのは確かだと考えている*1。
SEとキャラのセリフとの重なり
SEとセリフとの重なりに関して言及するとき絶対に外せないは第十話である。この赤道祭のラストシーンは「和音」が最大の効果を発揮した個所の一つだろう。
- 鏑木美波がみんなで歌いたいと提案し、一人で歌い始める
- 晴風クラスも次第に歌に参加し、合唱となる
- 晴風クラスの歌が重なり、画面が溶け合うように切り替わる*2
- 赤道祭が終わり一人艦尾にたたずむ岬明乃
- 波の音とともに憂いを帯びた岬明乃の表情が映し出される
- 画面が切り替わりサブタイトルが表示され十話が終わる
このシーンはまさに映像と音の総合芸術言えるだろう。合唱(キャラのセリフ)は間違いなく晴風クラスが一つになったことの隠喩であるが、その直後に寂しげな波の音(SE)とともに一人たたずむ岬明乃を映す(映像)。さらにその浮かない表情を視聴者に見せた後で「赤道祭でハッピー!」という真逆のサブタイトルを表示させる。
この短いシーンの中で映像と音が次々と真逆の意味に切り替わっている。
- 皆で合唱⇒一人たたずむ、という反転
- 明乃の憂い顔⇒「赤道祭でハッピー!」という文字の反転
- 「赤道祭でハッピー!」という文字と共に寂しげな波の音が響く反転
映像と音を駆使して短い間に組み込まれるアイロニー。このシーンが私は震えがくるほど好きだ。映像と音を使ってストーリーを語る、感情を語る、視聴者の情緒を乱す。確実に「アニメを見る快楽」に肉薄している映像の作りだと私は思う。私は以前物語論を語った時に喪失⇒回復の描写に快感があるのだ、と書いたことがある。
同様にこの「和音」もアニメの快感に一役買っている存在なのだろう。映像と音という五感に直接影響を与える部分が快感に直結する。言われてみれば当然のような気もするが、これを作品に盛り込むのは難しい。ここで紹介した以外にもはいふりで「和音」が活躍する場面は多くあるのでアニメを見るときの新しい楽しみにしてみてはどうだろうか。
おわりに
以前からアニメの映像と音をつなげる「何か」について考えてみたいとは思っていたがなかなかその姿がつかめなかった。だが、「冰剣の魔術師が世界を統べる」を見たことで頭の中の整理が出来た。今回の話題の中心である「和音」についてこうして表現できたのは冰剣のおかげと言えよう。
特に第十話のすばらしさを和音でまとめることができたのは個人的に良かった。何度も言うがあの十話の演出が私は好きなのだ。あれほど素晴らしい演出をした人物に興味が湧いてきてしまった。名前だけでも憶えて帰ろうではないか。
・・・ん?
いや、まさか、そんな・・・。
ひょ、冰剣だとぉ~~~~~!?
そうだ。たかたさまひろこそが演出の魔術師。