はいふり批評17 家族の虚構、虚構の家族

3年前、タイに旅行に行ったときのことだった。バスのガイドさんがタイの王朝について移動しながら説明をしてくれていて、私はそういった歴史などに興味を持ち始めていたころだったからとても楽しく聞いていた。その中で、

現在のバンコク王朝の前のトンブリー王朝の王には子供ができず*1、親友だったラーマ1世に国を譲った

という話があった。その時私は「なるほど。そうなのか」と納得していたが。Wikipediaではラーマ1世は乱心した前王を殺して王位についたとされている*2。さて、どちらが正しい歴史なのだろうか。

いや、どちらが「正しい」など考える必要はない。私たちはもう物語としての歴史にしか触れることができず、それゆえに多様な解釈ができるのだから。

今回取り扱うのは、歴史を絶対視しないという考え方から生まれてきた批評「新歴史主義批評」である。

 新歴史主義についてのざっくりな説明

本来、「新歴史主義」なる批評方法がどのような考え方で成り立っているかを説明するべきだと思うが、この考えに至るまでの推移が私自身なかなか呑み込めなかったため、やめにする。

代わりに、新歴史主義批評において用いられる手法だけ説明してお茶を濁したい。

  1. 新歴史主義は対象の文学作品と同時代の文学以外のテキストを参考にして分析する
  2. 上記二つのテキストの中で国家権力がいかに保持されているに着目する

 1.について、例えば今回は2016年4月から放送スタートしたはいふりに合わせて、2016年5月に出版された「よくわかる現代家族 第2版*3」という家族社会学についての本を選定している。

「文学作品と文学以外のテキストを並行して読む」のが新歴史主義の特徴だ。これは、新歴史主義が「歴史」を絶対的なものとして捉えないことから出てきた手法である。極端な話、「ホロコーストは発生しなかった」と主張する本をベースに分析を行っても問題はない。新歴史主義の真価は過去を再現することではなく、過去を再定義して新たな解釈を作り出すことにある。

当然、選定するテキストによってさまざまな批評がありうる。これが新歴史主義の魅力的な部分でもある。

2.について、新歴史主義はルイ・アルチュセールミシェル・フーコーの考え方の影響を受けている。それは、国家権力が作り出したイデオロギーが個人の最も私的な部分にさえ作用しうる、という考え方である。新歴史主義はそのような権力の影響を暴き、文学作品にも、文学以外のテキストにもそれがいかに保持されているかを見つけようとする。

 

何はともあれ、さっそく実践でこの新歴史主義を試してみようと思う。

はいふりが表現する「家族」

新歴史主義をはいふりに適用する際に私が選んだテーマは「家族」である。選定した理由は二つ。一つは伝記的批評ではいふりの特徴として挙げたため。もう一つはマルクス主義批評で国防や政治についての批評を行ってしまったので、まだ手を付けていないテーマが必要だったためである。

そして、そのためのテキストとして前述した「よくわかる現代家族 第2版」を活用する。本来の新歴史主義は文学以外のテキストも文学のように読み込み、文学テキストとの相互影響を見たりするのだが、今回はそこまで難しいことはしないつもりだ*4

家族の虚構

では、この本に含まれる一節をここに抜粋してみよう。

私たちが「家族連れ」を認識するとき、目に見えるのは「家族らしさ」を有する個人の集まりでしかない。家族を構成する個人は目に見えても、それら個人の関係はそうではない。私たちは異なる文脈でさまざまな「家族」を理解するが、それは何らかの「実体」に関連しているわけではないのだ。

これは家族とは客観的に定義されるものではなく、主観的に定義されるものであるという主張の一部である。例えば、あなたに母親がいるとしよう。母親が認識している「家族」とあなたが認識している「家族」は果たして同じだろうか?

もしかすると母親は子供のころ一緒に育ち、今は世帯から離れている姉妹のことを「家族」だと認識しているかもしれない。しかし、それはあなたにとっては伯母でしかなく、「家族」ではなく「親戚」と認識するのではないだろうか。

このように、個人によって家族認知が異なっていることは渡辺秀樹ほか編の「現代家族の構造と変容」でも明らかにされている。

ここで一つの考え方をすることができる。劇中で岬明乃は晴風クラスを「家族」だと表現するが、それは「一般的な家族」ではない、と私たちは思う。だが、家族が主観的に定義されているものだという立場ではこの2つに違いなどない。

2つの家族が違って見えるのは私たちの中に「一般的な家族」のイメージがあるからに他ならない。そして2つの家族が違うものである、という意識ははいふりという作品自体にも根付いている。

虚構の家族

第十一話冒頭の岬明乃のセリフを見てみよう。

私、私ね。やっと晴風のみんなと家族になれたような気がしたの。したのに…

これは「家族」という言葉を使ってはいたが、今まで晴風クラスに家族の認識を持てていなかった、ということを意味している。つまり、彼女にも彼女なりの家族のイメージ、失った家族のイメージがあり、それに囚われているのだ。そしてこの表現は、はいふりという作品が2つの家族を異なったものとして認識していることも示唆する。

私は伝記的批評を行ったときにはいふりを指して次のように言った。

家族を失った岬明乃が、再び家族を見つけるまでの物語

 

no-known.hatenablog.com

 

前者の家族と後者の家族が「同一」のものでは物語として成立しない。形式上か、あるいは心理上か、何かしら違っているはずである。はいふりの場合は「形式上」違うということになるが、この違う家族が最終話で作戦を成し遂げることで、後者の家族(虚構の家族)でも前者の家族(本当の家族)と変わらぬ力を出せるのだと表現している。

もちろん、このこと自体は道徳的に素晴らしい。しかし、はいふりは「本当の家族」と「虚構の家族」が同じ力を出せることを表現するために「虚構の家族」という虚構を作り出しているとも言えるのだ。

 

ミシェル・フーコーによれば、様々な言説によって社会的・政治的権力は私たちの「内側に」作用する。はいふりを見た私たちは「本当の家族」と「虚構の家族」の違いを感じ取り、「2つは違うものだ」というイメージを植え付けられる。そのイメージが社会に対する認識を作り出すことになる。

はいふりに対する一つの仮説

先ほどまで「家族」というテーマではいふりがどのように社会的な認識を作り出すかを見てきた。はいふりはこの作品を作り出した文化を、再び作り出そうとしている。

この辺りまでが新歴史主義の範疇だが、この結果を元にして一つの仮説を立てることができる。

このはいふり批評を始めた際の問いは「はいふりの評価が両極端になっている理由を探る」というものだった。そして、ジャンル批評や読者反応批評を通してジャンル分けの困難さが一つの理由として考えられる、と結論を出した。

しかし、今回の批評によって、上記とは別の理由も浮かんできたように思う。

それは「岬明乃が家族を見捨てる行動をとっている」という点に拒否反応を起こす人が多かった、というものだ。

第五話に対する様々な議論

以前も参考にしたあにこ便*5でも第五話のコメント欄では岬明乃の行動について様々な議論が起きている。そこでは「艦長としての責務」「家族の認識の範囲」「以前の行動との一貫性」などが語られているが、批判側にも擁護側にも一貫した価値観が見える。つまり「家族は大切なものであり、優先して守らなければならない」という価値観である。

批判側は岬明乃の行動が家族を裏切るものだとして批判し、擁護側は助けようとした知名もえかもまた家族に含まれるため行動として間違っていないと擁護する。ここには「親友が危ない目にあっているのだから、家族を見捨てるのは致し方ない」というような擁護は存在しない*6

「家族が一番大切なものである」という価値観は、今の私たちには違和感がない。むしろ当然だと思えるだろう。しかし、統計数理研究所の行っている日本人の国民性調査では家族が一番大切だと考える人間が増えてきたのは1973年以降なのだ*7。「家族が一番大切」というのは普遍的な価値観ではなく、私たちを取り巻く言説が作り出したイデオロギーに過ぎない。

しかし、新歴史主義批評で触れたように、そのような言説は私たちに作用する。そのため、「家族」に対する裏切りに強烈な拒否反応を起こす人が多く、今のはいふりの評価につながっている、と考えられる。

だが、なぜはいふりは評価されるのか

先ほどの仮説は、まだ不完全である。この仮説ではいふりに「悪い評価」が付くのは理解できるが「良い評価」が付く理由がわからないからだ。

新歴史主義では「家族は一番大切なもの」という考えを含む思想統制の範囲を強調するために、それから逸脱するような思考は「不可能」となる*8。それはあにこ便で擁護している人も同様のはずである。「家族への裏切り」を見た後、なぜ擁護側ははいふりに対して好意的な判断を行えたのだろうか?

この理由として考えられるのは2つある。

  1. 家族への裏切りが明らかに失敗として描かれていたこと
  2. 家族への裏切りが第五話という物語前半で発生したこと

1.についてはスキッパーで飛び出す前の岬明乃が明らかに錯乱していたり、熱に浮かされたように艦橋から離れようとする演出から見て取れる。また、ここでは宗谷ましろがそれまで自分からは口に出さなかった「家族」のことを持ち出して明乃を非難し、これが「家族に対しての裏切り」であることを強調する。

そして、ご存じの通り明乃の試みは失敗に終わる。

2.については物語のお約束的な部分だ。序盤の失敗は終盤の成功のための布石である、という認識を共有している人は多い。実際に第十一話では第五話とは違い知名もえかと晴風クラスの大切さが拮抗したために、岬明乃は動けなくなってしまう。そして、家族に支えられることで立ち直り、家族とともに目的を達成するのだ。

まとめると、擁護側の人は家族の裏切りが終盤では撤回されるだろうと推測していたのである。そして、確かにそのようになった。この予定調和がはいふりの「良い評価」の一端を担っている。同時に、批判側も擁護側も新歴史主義の言う思想統制(ここでは「家族が一番大切」という思想統制)に囚われているという点では、結局同じなのだ。

おわりに

今回「家族」というテーマで新歴史主義批評を試してみたが、前述したとおり対象とする本を変えれば様々な新歴史主義批評がありうる。ほかの批評と比べるとかなり可能性の広い批評に私は思う。

しかし、同時に現代の作品に適用するのはかなり難しい。もともと新歴史主義はシェイクスピアなどかなり時代の離れた作品に対して、その時代に作られていた世界観やイデオロギーを元に作品を読み解く。それを現代の作品に対して行うと、現代の世界観やイデオロギーを、現代を生きる私たちが客観性をもって批評する必要がある。だが、現代を生きる私たちに、それを正確に行うのは無理がある。

この批評に関しては、もうしばらく時間をおいてから再度見直したほうが有用な気がしている。

*1:体が弱く、だったかもしれない。記憶があいまいだ

*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E1%E4%B8%96

*3:神原文子、杉井潤子、竹田美知 編著

*4:それは新歴史主義批評なのかと突っ込まれそうだが、はいふりを批評できればなんでもよいのだ

*5:http://anicobin.ldblog.jp/

*6:逆だと納得してしまう人もいるのではないだろうか

*7:https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/data/html/ss2/2_7/2_7_all.htm

*8:もちろん、これは明らかに極端な考えである。これが完全に社会に適用されるならば、「革命」という事象は起こりえない