善や悪はただの名目にすぎず、容易にくるくるどちらにでも移し変えることができる
ーーラルフ・ウォルドー・エマーソン
前回予告したとおり、今回は「脱構築批評」をはいふりに適用していく。
最初に、脱構築という直感的ではない概念の説明をした後、試しに岬明乃と宗谷ましろに対して脱構築批評を行う。その後、全体主義について脱構築を行い、この批評から導き出されるものを考えていきたい。
脱構築は物語の意味を決定不可能にする、という特殊な批評だが、その過程で得るものは大きい。
「脱構築」という試み
「脱構築」という言葉からわかる通り、この概念は構造主義から産まれてきたものである。私は構造主義批評で二項対立について考えたが、脱構築批評ではその二項対立の境界線を消滅させるように作品を読み解く。そして、作品には中心的意味がないことを証明しようとするのである。
脱構築批評は、作品から何の真理も意味も読み解こうとはしない。
ここで、「この批評はいったい何のために生まれてきたのだ」と思う方がいるだろう。物語の意味を積極的に無効化しようとするこの批評は、何のためにあるのか?と。
この批評の誕生は、西洋的な価値観への批判に端を発する。西洋において二項対立的な考え方が支配的だと発見した脱構築批評家*1はその二項対立がただ二つの要素が対立しているだけではなく、片方がもう片方よりも優れているとする価値観もまた含んでいることも見つけた。
例えば「男」と「女」の場合、男性優位社会の中では「男は優れており、女は劣っている」と片方が否定的な評価を下される。また、「内容」と「形式」を並べられると、多くの人は「内容が重要だ」と形式を内容よりも劣ったものだと判断するだろう。
上記のように、二項対立には片方が優れており、片方が劣っているという価値観が含まれている。この政治的主張や社会制度に疑問を投げかけ、破綻させるために生まれたのが「脱構築」なのである。
だからこそ、脱構築批評では二項対立を解体する。構造主義と異なるアプローチで作品を読み解いていく脱構築は、はいふりにも新しい視点を生み出す可能性を秘めている。
最初の一歩、岬明乃と宗谷ましろについて
まず、脱構築批評がどんなものか、わかりやすい例で実践していきたい。ここで考えるのは岬明乃と宗谷ましろについてである。今までの批評でも散々対立関係にあることを強調してきたこの2人だが、実際にどれだけ対立要素があるのか一度まとめてみよう。
岬明乃 | 宗谷ましろ | |
髪形 | ツインテール | ポニーテール |
目の色 | 青色 | 赤色 |
特徴 | 運がいい | ついてない |
好きな食べ物 | カレー | ヒラメの刺身*2 |
家族構成 | 孤児 | 母親、姉2人*3 |
自室 | 殺風景、生活感が無い | 可愛いぬいぐるみが大量にある |
艦長としての在り方 | 自分の足で艦内のクルーを見て回る | 艦橋に構えて指示を出す |
ネコ | 好き | 苦手 |
憧れの人 | 父親 | 母親 |
見た目や嗜好など、様々な部分で真逆な設定になっていることが分かる。シナリオ先行でキャラクターが作られたために2人の違いは意図的に多くなっているのだろう。そして、この違いを解体していくのが脱構築批評なのである。
2人の考え方の解体
ここでは、先ほどあげた二項対立の中の「艦長としての在り方」に注目して脱構築批評を試してみようと思う。
岬明乃は第二話で艦橋を飛び出し、晴風メンバーの様子を見て回る。ここに基本的な岬明乃の艦長としてのスタンスがあらわれている。この巡回は宗谷ましろに艦橋に呼び戻されて終わるのだが、なぜ呼び戻したのか宗谷ましろから説明がないままとなる。この行動は「艦長は常に艦橋にいるべし」という宗谷ましろの考えが強く出ている場面と言えるだろう。
さらにこの話数では戦闘中に艦橋を離れた岬明乃によってミーナが助けられることになる。この描写からは、はいふりという作品が岬明乃の考えが正しいという価値観を提示しているように見える。
しかし、第五話で岬明乃は第二話と同じ行動を誤った形で実行してしまう。学校側の指示を無視してまで、助けられる可能性の無い武蔵へと単独で向かっていったのである*4。ここでは宗谷ましろの考えが正しいように思える。
だが、第六話では救援信号をキャッチした岬明乃が飛び出そうとする際に、宗谷ましろはそれを咎める。晴風自体は停止しており、交戦状態でもない状況で救出の手を遅らせるこの行動が正しいとは思えない。
ここまで見ると、岬明乃と宗谷ましろどちらの考えが正しいのか、決定不可能になっているのが分かるだろう。
続く第七話ではついに岬明乃と宗谷ましろはお互いの行動を切り替え、結果的に救助作戦を成功させる。第八話では宗谷ましろの理想とする艦橋からの指示出しを岬明乃が実行し、第九話では逆にシュペー突入部隊に参加する。両方の作戦を見事に成功させ「どちらの考え方も正しいのだ」という結論を導きたいようにも見えるが、第九話の戦闘では岬明乃と宗谷ましろが自身の艦長としての在り方を体現して挑んだにも関わらず、晴風は甚大なダメージを受けたことも忘れてはいけない。
こうして、両者の考えは片方が正しいとは断言できず、かといって両方正しいとも間違っているとも言えず、決定不可能なままになる。
この「決定不可能性」を示すのが脱構築批評の代表的なやり方である。二人の艦長としての在り方はもつれ合いつつも決着をつけずに終わるのである。
ここで「はいふりは艦長としての考え方を固定せず、柔軟に対応することが大事であると主張しているのだ」と書いても良いが、中心的意味を持たせない脱構築批評としてはNGである。
ただし、ここでは脱構築批評をはいふりを読み解く単なる一手段として使うので、上記のような読みは大いに推奨される。
本題、はいふり最大の二項対立の脱構築について
先ほど岬明乃と宗谷ましろの艦長としての在り方をベースに脱構築批評を行った。しかし、この二項対立はもともと2人の和解のために曖昧にされていた節が強く、脱構築的なアプローチも容易だった。
だが、はいふりにはもっと強烈な二項対立がある。私が以前形式主義批評を行った際に見つけた二項対立、全体主義と個人主義の二項対立だ。
この二項対立は作中で個人主義が全体主義に勝利して終わると明確に描写されている。つまり、「個人主義の方が全体主義よりも優れている」という明らかなイデオロギーが存在している、ように見える。
全体主義の脱構築
この検証を行う前に、「全体主義」についての定義を行わなければならないだろう。以前取り上げたように、全体主義とは全体のために個人は従属すべきだという考え方である。RATtはそれを体現し、RATt自身の自己生存本能のために横須賀女子海洋学校の生徒たちを操作した。
ここでは、従属すべき「全体」とは何か、という点を考えてみたい。RATtの全体主義でいう「全体」はRATtという種族を指していると思って、まず間違いない。第四話でRATtは明石・間宮という脅威に対して、自分を守るために攻撃行動を行った。そして第九話で複数のRATtが入り込んでいた状態でもシュペーが問題なく行動をとれていたことを考えると、RATt間での共通認識のようなものがあることが分かる。
RATtの全体主義が自らの種族を生存させるための行動だと定義する。そう考えると、果たして晴風クラスとの、そしてブルーマーメイドとの違いはいったい何なのだろうか?
彼女たちも同様に、自らの種族である人類を生存させるために行動をしていることに異議などないはずである。だからこそ彼女たちは機雷掃海を行い、海難救助を行い、そして武蔵の停船作戦を実行した。彼女たちの方も、むしろ彼女たちの方こそ、人類という「全体」のために己を犠牲にするほどの従属性を見せているのではないだろうか。
全体主義的なRATtを非難しているかに見えるはいふりは、実は賛美している方も全体主義的な傾向があることを自らの中で示してしまっているのである。
別の見方をすれば、そもそも「全体主義 VS 個人主義」などという図式も怪しくなってくる。全体主義は政治的な考え方の一つであるが、はいふり作中には文字で出てきた意外にはそのような主張は見られない。むしろRATtという新生命体と人類という旧生命体との戦いを描いたパニック映画的な作品とも捉えられる。その場合、双方に貴賤など存在しないことになる。
脱構築の別のアプローチ
「全体主義 VS 個人主義」について、別のアプローチを試してみよう。
第八話で晴風クラスが比叡座礁のための作戦行動の許可を校長にもらおうとした際に、以下のやり取りがあった。
校長「わかりました。許可します。ただし、クラス全員とよく相談して」
岬明乃「ありがとうございます」
また、第十二話の冒頭でも岬明乃は以下のように校長へ報告する。
岬明乃「晴風艦長、岬です。武蔵への作戦行動を許可願います。クラス全員の同意は取れています。やらせてください」
このやり取りで分かるのは、「クラス全員の合意」というものを重視している点である。艦長の独断ではなくクラス全員に意見を聞くのは、いつも一人で飛び出していた岬明乃の変化を表しているのだ、と単純な解釈ができる。だが、ここで注目したいのはこれが民主制であるという点である。艦長独断(君主制)ではなく、全員の意見を聞いて行動を決定している。
一見素晴らしいことのように見えるが、私たちは忘れてはいけない。この民主制から全体主義が、あのナチスドイツが生まれたことを。ナチ党は反ユダヤ主義を公言しながらもドイツ国民の支持を得て議席を着実に獲得し、ヒトラーは国民投票によって国家元首となった*5。
政治哲学者のハンナ・アーレントはナチスドイツを全体主義と定義し、発生の原因を著書の「全体主義の起源」の中で示した。その一つが「政治的関心を持たない大衆」が急に政治に関心を持ち、自分たちの抱える問題に対してわかりやすい解決策をもつ政党に投票してしまったことだと論じている。そう、民主制が全体主義を生み出したのである。
こう考えると、先ほどと同様に晴風クラスにも全体主義的な傾向が見られると捉えることもでき、二項対立が崩壊する。ある種、これもはいふりに含まれるアイロニーの一つなのである。皮肉に皮肉を折りたたんだ、奇妙に冷たいはいふりの姿がここから浮かび上がってくる。
おわりに
脱構築批評は、重箱の隅をつつくような読解によって作品から中心的意味を無くそうとする。というよりも、脱構築批評家にしてみれば元々作品には中心的意味など無いというわけだ。この批評は発生した歴史的経緯などを把握していないと存在意義が見えにくい。
だが、先ほど批評したように、形式主義批評で出てきた答えに疑問を持って読むという行為は、新たな解釈を与えてくれることにもなる。
この批評を通して一つ気づいたことがある。今までは西洋生まれの批評ばかりを使ってはいふりを見てきた。西洋的な二項対立関係を考える構造主義批評はその最たるものである。だが、はいふりは日本のアニメだ。
日本のアニメであるはいふりを批評するのには、そのための、今までとは全く別種の批評が必要なのではないか? そのような疑問を今私は持ち始めている。これは考えがまとまった時にはいふり批評としてまとめようと思う。