はいふり批評14 防衛関係費を叩いてみれば、はいふり開花の音がする

国家が有する政治、経済、文化のすべてを含む種々の力の中で、古来何人も否定しえない最も基本的なものは、畢竟軍事力であって、この軍事力のバランスについての正確な認識のない国際関係論は、どこか心棒が一本抜けたものにならざるをえないという、常識的かつ、疑う余地のない認識を持つことである。

ーー岡崎久彦「戦略的思考とは何か」

有名な「ガリヴァ―旅行記」は今こそ単なる冒険記のように読まれているが、出版当時は政策に対する諷刺小説だった。ある作品の成立の背景には、必ず政治的・社会的・経済的なものが関与している…今回行うのは、それらを探る批評、「マルクス主義批評」である。

※現在TVでハイスクール・フリートの放送をやっていますが、この批評にはネタバレが多分に含まれるため、気を付けてください※

すべての文化は社会の影響を受ける

マルクス主義」という言葉を使ってはいるが、この批評の実践にマルクス主義の完全な理解は必要ない。必要なのはマルクス主義の中にある唯物史観的な見方である。これは、社会を上層部(芸術・政治などの文化)と下層部(生産・分配などの経済的土台)に分ける。上層部に位置している芸術や政治は、必ず下層部に位置している経済的状況からの影響をまぬがれない。これが、マルクス主義批評に必要な考え方である。

つまり、作品というものは社会からもたらされる影響を、その内部に取り込んでいるということだ。もちろん、はいふりも例外ではない。今回の批評では、どのような政治的・社会的・経済的情勢がはいふりという作品に影響を与えているかを探っていくことになる。

これは精神分析批評の考え方と似通っている。精神分析批評は表現されているものの裏にある人間の心理を読み解こうとするが、同様にマルクス主義批評では裏側に社会的な影響を読み解こうとする。この社会的な影響は人の心理と同様に無意識的に組み込まれていくものだと考える。

本来のマルクス主義批評だと、過去の作品を対象としてそれこそ10年単位で情勢を検証していく。しかし、はいふりは2016年が初出の作品であるため、現代を生きている私たちにはそのように俯瞰的な見方はまずできない。そのため過去数年、特に2012年~2016年あたりの情勢を中心に考えたい。

上記の年を選定したのは、原案の鈴木貴昭へのインタビューではいふりの企画開始が2012~2013年あたりだろうという推測と、オリジナルアニメが企画から放映まで大体3年かかるという情報からである。

何がはいふりを作り出したのか?

とはいえ、政治的・社会的・経済的情勢と言っても幅が広すぎる。そこで、はいふりという作品の特徴からある程度のあたりをつけて調べてくことにする。私が考えたのは以下のようなものである。

はいふりの特徴として戦闘美少女ものであることもあげられるが、これは日本のアニメの中で常に隆盛を保っているので、今回は考えないこととする。

国防とはいふり

最初に戦争・国防という観点から見ていきたい。2012~2016年で戦争・国防関連で何か大きな出来事はあっただろうか? 下のグラフは、防衛省が公開している昨今の防衛関係費の推移である。国防省のHP*1から見ることができる。

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グラフを見ると2012年(平成24年)までは年々減り続けていた防衛関係費は2013年(平成25年)から増額し、2019年(平成31年:令和元年)では20年前の予算を超えていることが分かる。

なぜこの年から増額しているのか、その理由も国防省で公開されている*2。要約すると次の3点である。

  1. 北朝鮮のミサイル発射実験による不安の増加
  2. 中国による領海侵犯、領空侵犯の増加
  3. 東日本大震災のような大規模災害に対する備えの重要性の増加

現代に生きている日本人にとって、どれもすんなりと理解できる内容だろう。だが、はいふりという作品を100年後も研究し続けているであろう未来の批評家のために説明を加えておく。

朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)のミサイル発射実験は2019年の現在に至っても国防上の話題に上がり続けている。2012年12月には北朝鮮が初めて開発したと言われる大陸間弾道ミサイルの改良型を用いて、衛星の打ち上げに成功している。

中国による領海・領空侵犯は2012年から増えてきた。以下は海上保安庁でまとめている尖閣諸島周辺海域の領海侵犯の数である*3

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2012年9月頃から爆発的に件数が増加しているのが分かるだろう。この増加には理由があるのだが、詳細は海上保安庁のHPを参照していただきたい。あまり深入りすると批評からどんどん離れてしまう。

東日本大震災は2011年3月11日に発生した地震に伴う災害のことである。他の震災と異なるのは、地震自体の被害よりもそれによって発生した津波原発事故の影響が大きかった点だろう。2019年時点で死者数は1万5000人以上と、戦後最大の被害を出している。

この震災では被災地以外にも影響が出ている。発電所が被害を受けたことにより東京電力管内では計画停電を実施し、多くの人々がそれに協力した。また、上記の原発事故の関係で実際には検査済みの土地・食物なども忌避されるようになり、該当地区では経済に大きな爪痕を残している。

 

これら3つの事件の影響を受けて、2013年から防衛関係費は増えているのである。そして、マルクス主義批評はそこに注目する。

はいふりは「ガールズ&パンツァー」「艦隊これくしょん」の隆盛の最中に生まれたにも関わらず、作品としては戦闘よりも防衛・人命救助に重きを置いた作品となった。そこに上記のような国際情勢と自然災害という下層部からの影響が見てとれるのである。

はいふりの放映後にコミックマーケット90でスタッフお疲れ様本が販売された*4。その中に原案鈴木貴昭による初期の作品プランが載っている。そこには「ミリタリーテイストスクールライフ」と銘をうち、学校行事と戦闘を絡めていく流れが記載されている。しかし、防衛・人命救助といった文字はどこにも出てこない。複数の人間とシナリオの調整を行った結果、上記のような社会情勢の部分が知らず知らずのうちに大きくなっていったのではないかと私は推測している。

政治とはいふり

次は政治的な観点である。政治的な観点で2012年付近に起こった事と言えば民主党から自民党への政権交代が真っ先に上がるだろう。2009年9月に発足した民主党政権普天間基地移設問題や尖閣諸島漁船衝突事件、東日本大震災での対応などで批判を浴び支持率が低下。2012年12月に行われた衆議院議員総選挙では自民党が圧勝し、自民党政権が復活した。

以下に示したのは、総務省が公開している衆議院議員選挙における投票率の推移である*5

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ここで目立っているのは2005年(平成17年)と2009年(平成21年)の投票率の高さ。そして、2012年(平成24年)以降の低さである。2005年の選挙は「郵政選挙」「小泉劇場」など様々な呼ばれ方をしている。当時の小泉首相郵政民営化法案の否決を受けて衆議院の解散を宣言。反対した議員の選挙区に「刺客」を送り込む戦術を実施した。また、その対立関係をメディアを通じて強調することで普段は投票しない有権者も動かしたとされている。実際に、上記のグラフでは投票率が大きく上昇している。

続く2009年の投票率の高さは2005年からの選挙に対する関心の高さが続いているとも解釈が可能だが、2012年以降の投票率の低さはなんだろうか。

政治学者の山田真裕は、著書の「二大政党制の崩壊と政権担当能力評価」にて、民主党政権が瓦解した原因をアンケート調査などから考察している。この中に政権担当能力を持った政党はどこか、というアンケートがあるのだが、その結果「政権担当能力のある政党は無い」と回答した人が28%にもなった。これは2009年以前は6%程度しか回答が無かった項目である。

さらに他のアンケート等も参照し、以下のような傾向が分かってきた。

  • 政権担当能力のある政党はないと判断している人は選挙の棄権率が高くなる
  • 政治的関心が低い人は選挙の棄権率が高くなる
  • 投票義務感が弱い人は選挙の棄権率が高くなる

つまり、2012年の投票率の低さは、上記のように考える人々が増えたためだと考えられる。

 

よく、政治のことを「国の舵取り」と航海用語を使って比喩的に表現することがある。そう考えると2012年は「国の舵取りができる政党が無い」と国民がはっきりと感じはじめた年でもあるのだ。そして、はいふりという作品の作りにも、それが反映されているのではないだろうか。

はいふりの主人公、岬明乃は一隻の船の艦長だ。船の舵取りを任されている人間である。その彼女は、他のアニメの艦長キャラと違って、自分の在り方・艦長の在り方について確固たるものを持っているわけではなく、それ故に悩み続ける。それ故に副長から反発される。こうした構図は、今の日本と重なりあう。いや、重なりあうと感じる人が増えている、と表現した方が正しいだろう。

最終的に岬明乃が自分の在り方を見つけるというのは、日本の将来に対する願いが込められているのかもしれない。

おわりに

今回の批評結果をまとめると以下のようになるだろう。

  • はいふりは国際情勢と大規模な自然災害の影響を受けて、防衛・人命救助に重きを置いた作品となった
  • はいふりは政治の不安感を反映して、一人の船長が自分の在り方に悩む作品となった

上記の他に、2005年、2009年と政治的に関心が薄い層が投票に参加し政権交代に寄与したことを鑑みて、「全体主義の発芽だ」と論じる批評も考えたが、やめておいた。上記の山田真裕の著書でも、2005年に参加した層について政治的に盲目だったかというと、そうは言えないと分析している。結構、日本国民はいろいろと考えているようだ。

 

これまで脱構築批評、精神分析批評、マルクス主義批評とオーソドックスな批評を連続で取り扱ってきたが、次回は少し方向を変えてみようと思う。具体的には、作品を一緒に作っているのにあまり批評されない役職「プロデューサー」に焦点を当てて批評を行っていきたい。