はいふり批評13 岬明乃はなぜ母親ではなく父親を目指すのか

たのんだぞ、ハムレット。もう行かねばならぬ。夜明けが近づいた。はかない蛍の火も薄れてゆく。もうこれまでだ。行くぞ。父を忘れるな、父の頼みを。

ーーウィリアム・シェイクスピアハムレット

今回行おうとするのは精神分析批評と呼ばれるものである。精神分析批評とはどういったものかを最初に説明し、実践としてはいふりの主人公岬明乃の精神分析に挑んでみたい。

※現在TVでハイスクール・フリートの放送をやっていますが、この批評にはネタバレが多分に含まれるため、気を付けてください※

精神分析批評の説明と対象

精神分析批評とは文学批評に精神分析の技法を応用しようとするものである。精神分析オーストリアジークムント・フロイトが確立し、神経症患者の治療に取り組んだ。フロイトの著作でもっとも有名なのはおそらく「夢解釈」だろう。誰でも一度は聞いたことがあると思う。

精神分析批評はこの「夢解釈」の概念を文学に適用する。

夢というのは現実の出来事や無意識の欲望がさまざまに変形された結果出来上がる。この変形の法則を読み取って夢から無意識を読み解こうとするのが夢解釈なのだ。

これを応用し、精神分析批評は作品そのものを夢と同様にとらえ、その作成の過程を解明することで無意識の欲動を読み取ろうとする。そして、その作品は「本当は」何を言おうとしているのかを解明するのである*1

精神分析批評にはフロイト派、ユング派、ラカン派と様々な派閥があるが、ここでは特に違いを説明せずに使おうと考えている。むしろ、何を対象として精神分析批評を行うかの方が重要だ。

精神分析批評の対象は以下の4種類に分けられる。

  1. 作品の『作者』を対象とする
  2. 作品の『内容(登場人物、出来事)』を対象とする
  3. 作品の『形式構成』を対象とする
  4. 『読者』を対象とする

1.については、以前伝記的批評の記事でまとめた通り、「作者とは誰か」という問題に直面することになる。また、たとえ吉田玲子に絞ったとしても、情報が少なく実施困難だった。

 

no-known.hatenablog.com

 

そのため、今回は2.と3.の視点からの批評を実施することにしたい。

作品の内容を対象とした精神分析批評の実践

岬明乃はなぜ父親を目指すのか

まずは、作品の内容に対する精神分析批評となる。ここでは、主人公の岬明乃の場合を中心に考えていく。

精神分析の適用を考えたときに岬明乃には狙っているのかと思うほど興味深いセリフがある。第一話で古庄教官から理想の艦長について尋ねられた際のセリフである。

 それは、船の中のお父さん、みたいな。あの、船の仲間は家族なので!

 最初にこのセリフを聞いた人は大きな違和感を感じるだろう。なぜ彼女は、同性である「お母さん」ではなく、異性の「お父さん」を理想として挙げたのだろうか?

仮にこれが構造主義批評であれば、父親を目指す岬明乃と母親を目指す宗谷ましろとの二項対立を見つけ出し、宗谷ましろの岬明乃への反発を女から男への反発と見る。そして、最終的に2人が和解することで均衡状態となり物語が大団円で終わる、と整理するかもしれない。

だが、精神分析批評は違う。この岬明乃の発言に精神分析の諸症状を当てはめようとするのである。

ここで、フロイトの理論で中心的な概念である「エディプス・コンプレックス」について説明しよう。これは単純化すると子供が同性の親を排除し、異性の親と結ばれようとする心理のことである*2。このエディプス・コンプレックスを経験し、克服することで人は一人前になるとフロイトは考えるのだ。

この「エディプス・コンプレックス」という概念を用いて、なぜ岬明乃は父親を目標とするのか分析してみる。

エディプス・コンプレックスは異性の親と結ばれたいという欲動である。岬明乃に置き換えれば、それは父親と結ばれたいという無意識の願望と言える。本来であれば、父親との恋愛が不可能であることを理解し、その欲動は他の男性へと向かうことになるが、岬明乃は違った。なぜなら、そのエディプス・コンプレックスが発生する「エディプス期(4歳~5歳ごろ)」に彼女は両親を失ってしまったからである。

愛すべき父親も、憎むべき母親も同時に失ってしまった岬明乃は、エディプス・コンプレックスを克服できない*3。彼女は愛すべき父親を探し求めるが、当然それは見つからないのである。では、彼女は何をするのか。そう、父親を「模倣(imitation)」し、彼女自らが父親になってしまおうとするのである。

それが、この節冒頭のセリフにつながってくるというわけだ。

そしてこの後、岬明乃は副長の宗谷ましろとの関係を築いていくことになる。そこで行われるのは、岬明乃の父親像=艦長像の修正である。自分とは違った艦長像を持った宗谷ましろとの交流により、岬明乃は自身の艦長像を更新し、同時に父親とのかい離を経験して葛藤していく。

その葛藤が最高潮に達したのが第七話だろう。岬明乃は、彼女の持つ父親像=艦長像に迷い、ついに宗谷ましろに艦長はどうすればよいのか聞くのである。そして、そこからは自分の父親像とは違った形で役割を全うする。このとき、岬明乃は父親像とは異なる艦長像を見つけ、エディプス・コンプレックスを克服したのではないかと私は考える。

岬明乃はなぜ五十六を「大艦長」に任命したのか

岬明乃に対する精神分析批評をもう一つやっていく。先ほど第一話の古庄教官とのやり取りを引用したが、今回も同じ場面からの引用になる。

 あの、どうして私が艦長なのでしょう?その、私は艦長になれるほどの成績では…

ここでは、単純に岬明乃は自分が艦長にふさわしいとは考えていないことがわかる。そして、この後の出港準備の段階である出来事が起こる。

じゃあ、五十六は大艦長と言うことで!

 さらっと流されてしまうこのシーンであるが、これをフロイトの「防衛機制(defence mechanisms)」で読み解いてみよう。

防衛機制は不安や苦痛を伴う承認や認識を避けるために行われる行為の総称である。ここでは、岬明乃が五十六を大艦長に任命したのは、単純な思いつき以上の意味を持つことになる。

岬明乃は艦長に任命されたことに不安を抱いていた。そして、その責任から無意識のうちに逃げ出してしまう。そう、ネコの五十六に自分より大きな役職(大艦長)を与えることによって。

そういった責任への逃避が「いつも艦橋にいない艦長」という形で行動に表れているという考えもできる。その後、この不安は第五話、第六話で大きくなり、第七話での宗谷ましろとの和解の後に緩和されていく。そして第十一話。岬明乃は武蔵の救助に向かうか、退避するかの選択に迫られ、進退窮まってしまう。

ここで葛藤を解決するのは岬明乃自身ではなく、宗谷ましろになる。宗谷ましろ晴風クラスが艦長の支えになると宣言し、岬明乃の不安を分散させるのである。そして、第十二話で見事に事件を解決する。

最後に注目すべきなのは晴風からの退艦シーンだ。岬明乃は最後に晴風から降りてくる。そこで何かに気づいたように後ろを振り返り、五十六を迎え入れようと手を広げる。だが、五十六は岬明乃の頭を飛び越えて先に陸に上がってしまう。

ここは、岬明乃が第一話で与えた「大艦長」という称号を五十六から返してもらおうとしているシーンなのだ。艦長というのは退艦する際に最後に降りなければならない*4。不安を払拭した岬明乃は「一人前の艦長」として最後に晴風を降りるために後ろを振り向き、五十六を迎え入れようとしていたのである。もっとも、五十六が岬明乃の頭を飛び越えたため、想像とは違った形で達成されてしまったわけだが*5

はいふりという物語の再構築

ここまで「なぜ岬明乃は父親を目指すのか」「なぜ岬明乃は五十六を大艦長にしたのか」という2つの視点から精神分析批評を行った。

この批評によって浮かび上がってくるのは、はいふりという物語は岬明乃という精神的に未熟な少女が、一人前の少女になるまでの物語だったということである。彼女はこの航海を通して、エディプス・コンプレックスを乗り越え、また艦長として抱く不安も乗り越えた。

第一話で古庄教官が言った通り、荒い波を超えた後、陸に戻った岬明乃は立派な船乗りになっていたのである。

作品の形式構成を対象とした精神分析批評の実践

現代の精神分析批評では先ほど実践したような登場人物に対する精神分析はあまり主流ではない。それよりも、作品の形式構成に対して、精神分析批評を適用しようとする*6。簡単に言ってしまうと、作品自体を夢と同様に無意識の所産と考え、その生産過程を探ろうとするのだ。

この方法では、今までの批評でよく扱ってきた「作品の意味・意義」を見つけることから背を向ける。「作品がどのように作られたのか」という点に一番の関心を寄せるのである。ここで注目されるのは作品中で曖昧にされている個所、省略されている個所、必要以上に繰り返される個所などだ。

はいふりを見たとき、特に気にかかるのは「省略されている個所」だと考える。ハイスクール・フリートはその題名の通りハイスクール=高校が舞台となる。にも関わらず、アニメには学生に欠かせない描写が抜けている。それは「勉強」という行為である。座学もそうだが、たとえば砲撃訓練も天測の訓練も彼女たちには必要になってくるだろう。しかし、唯一それらしい描写は万里小路楓がラッパの練習をしているくらいである。

よくよく考えてみるとこの物語自体、本格的な実習がRATt事件によって妨げられることで始まるのである。そして、たびたび設定の違和感としてあげられる「なぜ学生だけで船を動かすのか、教官は乗らないのか」という点も、これに関係してくるだろう。

精神分析批評は、この表面上の欠如から無意識の支配性を読み解こうとする。

なぜ「勉強」や「学習」といった行為が欠如しているのか。そこには、経過よりも結果を求める考えが、はいふりの根底に流れているからではないかと考える。経過=勉強よりも、結果=人を助けられたかのほうがこの作品では重視されているように見える。

後半は救助系の話にシフトしていくはいふりだが、第七話のしんばしや第十二話の武蔵などは「勉強はしていたけど、助けることができませんでした」では済まない状況である。ここでは結果こそがもっとも重要だという、厳しく冷徹な価値観が表れている。

だが、同時に「勉強していなかったが、助けることができた」はただの偶然に過ぎない。勉強は確かに重要な行為である。だからこそ、はいふりという作品は勉強の否定をするわけではなく、その制作の過程において無意識のうちに勉強という行為を欠如させていたのである。こういった読み解きを行うのが形式構成を対象とした精神分析批評なのだ。

おわりに

精神分析批評は、表層のテキストから、その深層にある無意識の動きを読み解こうとする。今回は岬明乃を中心に考え、その結果として「岬明乃が一人前になるまでの物語」という側面を見つけることができた。

しかし、これだけが答えというわけではない。やってみると楽しい批評なのでぜひ試していただきたいと思う。岬明乃ではなく宗谷ましろ、納沙幸子に対して適用するのも面白い批評なのだ。

 

*1:当然、この「本当は」の部分を作者は意識していない

*2:男児の場合をエディプス・コンプレックス、女児の場合をエレクトラ・コンプレックスとして分ける場合もあるが、今回は一つにまとめる

*3:もっとも、フロイトの説明だとどうやって女児がエディプス・コンプレックスを克服するのかは分かっていないとのことだが

*4:この取り決めのソースがどこにあるのか不明だが

*5:このシーンに限らず、五十六はいろいろ見通して行動しているような節がある。が、そこは精神分析批評の領分ではない

*6:これはフロイト派よりもラカン派の考え方である