はいふり批評11 はいふりをのぞく時、はいふりもまたこちらをのぞいているのだ

読者から私が期待するのは、読者が私の本の中に私の知らなかったことを読み取ってくれることです。ただし、それを私が期待できるのは、自分がまだ知らないことを読みたいと思っている読者だけなのです

ーーイタロ・カルヴィーノ

今まで私は伝統的批評として作者を中心に考える批評を、形式主義批評として作品そのものを中心に考える批評を取り扱った。しかし、作品に関わる登場人物でまだ取り扱っていない立場がある。そう、視聴者である。

今回は視聴者を中心とした批評を文学批評で言う「読者反応批評」と合わせて考えて行きたい。

読者反応批評について

読者反応批評とはテキスト自体が何を示しているかよりも、テキストが読者の心にどのように働きかけるか、という問題に焦点を置くものである。

読者反応批評と言っても、その立場はさまざまである。アメリカの批評家であるスタンリー・フィッシュは作品とは過去・現在・未来に渡ってなされる雑多な解釈の集積に過ぎず、真の作者とは読者のことなのだと言い切る*1。フィッシュに言わせると「客観的な文学作品」などありえない。これは作品に対して客観性を追求しようとする形式主義とは真逆の主張だと言えるだろう。

この主張では、読者の好き勝手な解釈、たとえば「はいふりは戦争賛美のアニメである」「はいふりは戦争批判のアニメである」「はいふりはロボットアニメである」といった解釈まで認めてしまうのではないか、という懸念がある。

しかし、この点において読者反応批評家たちは予防線を張っている。フィッシュが対象としている「読者」とは「文学教育制度の中ではぐくまれた学識ある、もしくは消息通の読者」である。ドイツの批評家であるヴォルフガング・イーザーも「読者はテクストを内的一貫性のあるものとしてこれを構成せねばならない」と定めている。

それでは、実践を踏まえて読者反応批評を用いたはいふりを見ていく。

イーザーの読者反応批評

前述したヴォルフガング・イーザーは読者反応批評(受容理論)の第一人者でもある。彼の理論にとって作品には多くの「空白部」があり、読者はそれを埋めて作品を具体化する。しかしその行為はただ作品を読み進めれば理解が深まっていく、という直線的なものではない。作品を読み解くとは、仮説を作っては消し、信念を更新し、複雑な推理と予測を次々と行うことである。

その過程で読者は自分が無意識によりどころにしている常識やポリシーを否定し再構築することになる。

言葉で説明するだけだとおそらく伝わらないだろう。ここではいふりを使ってイーザーの読者反応批評を試してみよう。

読者反応批評で見るはいふり

読者反応批評を行うに当たって、「岬明乃」に対する読者の反応の移り変わりについて見ていこう。

まず第一話である。過去回想からましろとの出会いまでで、岬明乃の「明るく元気な女の子」という特徴が表現されている。読者もひとまず岬明乃をそのような女の子だと認識して見はじめることだろう。

その後、教室のシーンでクラス全員分の名前をすでに憶えていると推測できる描写が入る。ここで読者は、彼女が意外としっかりしている女の子だとイメージを修正する。そして出港のシーン。多くの読者には理解不能であろう号令を矢継ぎ早に出して出港を行う彼女の姿をみて、当初のイメージは大きく変化する。ただ明るい女の子ではなく、これまでに相当の勉強をしてきたのではないかと読者は考えるようになる。

その岬明乃の評価が大きく揺さぶられるのが第五話だろう。それまで「海の仲間は家族」と言っていた岬明乃は、その家族である(と宗谷ましろと視聴者は考えている)晴風クラスを投げ出して幼馴染のところへ行ってしまう。視聴者としては岬明乃の言動の不一致に対して批判的になり、「信用できないキャラだ」という評価を下す。あるいは彼女のPTSDめいた強烈な反応に「何か理由があるのではないか」として評価を一旦保留することもありうるだろう。

そして第七話。ここで岬明乃の過去と「海の仲間は家族」という言葉の本来の意味を視聴者は知ることになる。第五話で言動の不一致を指摘した視聴者は、実際には不一致が存在しなかったことを認識し、評価を改める。また、保留していた読者はここでやっと評価を確定させるだろう。

このように、視聴者は作品を見続けることによって「岬明乃」の「空白部」を埋めていくのである。

しかし、ここで重要なのは視聴者が今まで意識していなかった「家族」についての認識を改める契機をあたえるところにある。「海の仲間は家族」という言葉を、自分が失ってしまった家族を追い求めて使っていた岬明乃。「家族」を完全に理解できていない岬明乃を前に、視聴者は「家族」という概念に対して審問を開始することになるだろう。

第一話時点で岬明乃が語った「家族」とは彼女の中でどのような存在で、視聴者の「家族」の認識とどれほどの乖離があるのか? そしてそれは第十話時点でどのように変化したのか? その結果、視聴者は自分の中の「家族」の認識を更新する。

イーザーにとって読書の意味とは、より深い自意識をもたらし、自分自身の価値観に対するより批判的見方が触発される点にある。まるで視聴者が読み解こうとしているのは作品ではなく視聴者自身であるかのように。その意味ではいふりは「家族」の認識を更新する機会を与えてくれる作品なのだと言える。

ヤウスの読者反応批評

 読者反応批評の論客として、もう一人紹介しよう。ドイツの批評家ハンス・ローベルト・ヤウスである。彼の理論はイーザーよりも歴史を意識したものになっている。

視聴者は作品を見るとき、事前の広告などから過去の作品と結び付け、さまざまな期待を抱く。これをヤウスは「期待の地平」と呼んでいる。そして作品を見ることによってそれが肯定されるか、あるいは否定され読者の地平に変化が起きる。

この「期待の地平」と実際の作品との隔たりこそが芸術性を引き出すのだとヤウスは考えるのだ。ちなみに、この隔たりが無いものは「娯楽作品」と定義される*2。ヤウスは「娯楽作品」と「芸術作品」を分けて考えているのである*3

それでは、ヤウスの読者反応批評ではいふりを見ていこう。

 はいふりの「期待の地平」を見る

最初に言及しておかなければならないのは、はいふりは最初日常系アニメのような宣伝の仕方をしていたという点である。「のんのんびよりのあっとがキャラデザ、同アニメでもシリーズ構成をした吉田玲子が参加」、という形だ*4

ただし、スタッフがほぼガールズ&パンツァーと同じという点から放送前に海のガルパン版だと推測している人もいる。あにこ便*5というアニメ感想のまとめサイトでは放送前のアニメの期待度を語り合うスレッドがまとめられているが、そこでも放送前の日常系な宣伝はフェイクであると判断している人が多い。

また、放送前の時点でイントロダクションは公開されており、そこから海で働く女の子の物語になるのではないかと考える人もいた。

ここで放送前のはいふりの「期待の地平」をまとめると以下のようになる。

では実際に第一話を見た後、視聴者の地平はどのように変化したのだろうか。ここでもあにこ便の第一話終了時の感想スレッドを見てみよう。ここでははいふりという作品がどうなっていくのか、その推測に複数の作品の名前が飛び交っている。

ここでミリタリーもの以外に「無限のリヴァイアス」と「がっこうぐらし!」が出てきていることに注目したい。前者は閉鎖的な状況に追い込まれた少年少女たちの群像劇である。反乱認定を受けて孤立無援になったことでこの作品を思い浮かべた人が多かった。後者は日常系とみせかけて実はサバイバルものだった作品である。これも日常系からの転換を見て思い浮かべた人が多かった。

はいふりをご覧になった方はもうお分かりだと思うが、「無限のリヴァイアス」と「がっこうぐらし」の「期待の地平」はこの後否定されることになる。

 

もう一つ注目すべきことがある。放送前の「期待の地平」から放送後になって日常系が消えたのは納得できる。ところが、お仕事系についても、類似の作品がでてきていないのだ。第一話の展開から、完全なミリタリーものだ、と判断した人が多く出てきていたということだろう。

だが、ジャンル批評で語ったようにはいふりはお仕事系の傾向が強いのである。

流転する「期待の地平」

このように、はいふりは放送前の「期待の地平」を第一話で否定したかと思うと、第二話以降で第一話で作られた「期待の地平」も否定していく。ヤウス的な判断に則れば、はいふりは「芸術作品」であり「娯楽作品」ではない、と言えるだろう。この価値判断は現代ではほぼ意味をなさないかもしれないが、一つの視点ではある。

はいふりを見たときに発生するこの「期待の地平」の流転はそれがジャンルを次々と飛び越える点で特異と言っていい。

私ははいふり批評の最初にジャンル批評を行い、そのジャンルとして4つを仮定した。

no-known.hatenablog.com

 

しかし、先ほどヤウスの読者反応批評で出てきた「のんのんびより」も「無限のリヴァイアス」も「がっこうぐらし!」も先の批評では現れなかったタイプの作品である。

以前、ジャンル特定の難しさがはいふりの評価が二分している原因だと分析していたが、その説をより補強するような事実がヤウスの読者反応批評を通して見つかったとも考えられる。はいふりは、さながら荒れ狂う海のように、視聴者をジャンルの波で叩き付けるのである。この波を乗りこなすのは、たしかに難しいと言える。

おわりに

イーザーとヤウスの読者反応批評を試みて分かったのは、はいふりが読者側に視点の転換を多く要求することである。岬明乃に対する評価然り、はいふりという作品のジャンルの判断然り。「がっこうぐらし!」「魔法少女まどか☆マギカ」のように1回の転換を行う作品はすぐに思い浮かぶが、はいふりのように複数回に及ぶものは他に例を出せない。

これがはいふりの特徴であり、はいふりの批判でよくある「結局何がしたかったのかよくわからない」という感想にも結びついてくるのではないかと考えている。

今回の批評は新しい視点の開拓には至らなかった。しかし、読者を中心に見据えているため、「なぜはいふりの評価は二分しているのか」という問いについては、その答えを補強できる結果が出てきたように思う。

また、今回読者反応を探る上で空想上の視聴者を想像するのではなく、あにこ便というまとめサイトから実際の視聴者の声を確認した。こうしたことができるのは、現代ならではだろう。もしかすると、現代用の読者反応批評理論の構築も可能なのかもしれないが、一旦今回はここまでにしておく。

次回はおそらく脱構築批評ではいふりを見ていくことになる。

 

*1:テリーイーグルトン著 文学とは何か(上)第二章現象学、解釈学、受容理論 より

*2:H.R.ヤウス著 挑発としての文学史 より

*3:もっとも、これはヤウス特有のものではない

*4:このあたり、詳しい情報ははいふり通信[http://haifuri.joho-base.net/?p=8967]にまとまっている

*5:http://anicobin.ldblog.jp/