「施肥が十分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません」
花は、言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子をつくる器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態が内部に生じるからでしょうか。
ーー吉野弘「茶の花おぼえがき」
以前はいふりのSF要素を考察した際に、RATtはアイロニーが含まれた存在であることを書いていた。今回はその「アイロニー」を中心にはいふりを見ていこうと考えている。
はいふりには、かなり多くのアイロニーが含まれており、それを探してみるのも楽しみの一つかもしれない。
はいふり三大アイロニー
「アイロニー」とは、見かけと現実の相違が認識されること、またそこから生じてくる皮肉のことを言う*1。実は、はいふりにはこのアイロニーが多分に溢れているのである。中でも物語の大筋に関わるような大きな3つのアイロニーをここで「はいふり三大アイロニー」と(勝手に)定義する。
家族のアイロニー
伝記的批評を試した時に明らかになったが、はいふりの大きなテーマとして「家族」があげられる。
この「家族」に対するアイロニーは、はいふりの代表的なものである。
このアイロニーは主に岬明乃の家族に対する認識と、宗谷ましろ(と視聴者)の家族に対する認識の相違によって生まれているものだ。
第五話を見てみよう。東舞鶴校の教員艦を攻撃する武蔵に対して、岬明乃がスキッパーで接近しようとする場面。ここで副長の宗谷ましろは岬明乃に対して以下のように叱責する。
海の仲間は家族じゃないのか!この船の乗組員は家族じゃないのか!どうなんだ答えろ!
ここは・・・守るべき家じゃないのか?
これに対する岬明乃の回答は以下になる。
もかちゃんが・・・私の幼馴染が、あそこにいるの。大事な、親友なの。
宗谷ましろの問いに対して、一つとして答えないまま岬明乃はスキッパーで飛び出してしまう。この場面で宗谷ましろと同様に視聴者の大半もあ然としただろう。
ここに強烈なアイロニーがある。しかも、一度目では視聴者も気づかないアイロニーである。岬明乃は両親を幼いころに亡くして、「家族」というものの実際が分からない。知名もえかと話した「海の仲間は家族」という言葉を信じて晴風に乗り込んでいるのである。
宗谷ましろの(そしておそらくは一般的な)認識であれば家族は最優先で守らなければならないものなのだろう。だからこそ、岬明乃の行動をとめるために「家族」という言葉を持ち出したのだ。
しかし、岬明乃は「家族」というものがはっきりとつかめていないために、宗谷ましろの言葉を完全に理解できない。逆に宗谷ましろも岬明乃の背景を知らないために彼女にとっての知名もえかの重要性を理解できない。
「家族」という共通の言葉なのに、お互いが感じる意味や重要度が違っており、結果として2人の間に軋轢が生まれてしまう。これこそがアイロニーなのである。
さらに、終盤になると家族にまつわるもう一つのアイロニーが生まれてくる。10話で「家族になれたと思った」岬明乃は、その念願の達成ゆえに今度は責任感で押しつぶされて11話でつまずいてしまう。
自分が求めていたものが手に入ったが、手に入ったものの重さで逆に自分が潰されてしまうというのも、状況のアイロニーとして捉えることができるだろう。
RATtのアイロニー
RATtが持つアイロニーについては、以前にも若干触れているがここで補足する。
作中から読み取るに、元々RATtの研究は人の命を助けることにつながるものだった。それが、逆に人の命を脅かしてしまう。ここに状況のアイロニーがある。
さらに、「元々人の命を助けるもの」というのは岬明乃たちが目指す「ブルーマーメイド」にもつながるものだ。「RATt」と「ブルーマーメイド」。同じ人の命を助けることが始まりだったはずの2つが、作中では終始戦い続けるという皮肉めいた展開になっているのである。
世界のアイロニー
はいふりの世界では、現実で起きた第一次・第二次世界大戦が起きなかった。正確には第一次世界大戦に相当する「欧州動乱」は発生したが、結末が大きく違うのだ。史実では戦争で多くの人が死んでいるのだから、はいふり世界は実に素晴らしい世界に思える。だが、この世界感にもやはりアイロニーは含まれている。
まず、なぜはいふり世界では第二次世界大戦が起きなかったのだろうか。大きな要因は次の2つだろう。
- 欧州動乱後のパリ講和会議が紛糾した
- 日本の地盤沈降が始まり、大陸への進出をあきらめた
ここで重要なのは2つ目の方である。大陸への進出を日本があきらめたことで、日本と他国との関係悪化も避けられたと考えられる。歴史的に日本はアングロ・サクソン諸国と組んでいるときは順風満帆な傾向があるのだ。日露戦争は日英同盟のおかげで有利に進めることができ、第一次世界大戦では勝ち馬に乗れた。逆に英国とアメリカを敵に回した第二次世界大戦の結果は言わずもがなである。
しかし、この戦争回避は日本人の意思で行われたものではない。日本の地盤沈降の対応で他のことに手を回せなくなったために、やむを得ずそうなっただけである。
はいふり世界の日本人が特別賢明だったわけではなく、ただ外部の変化に振り回されているだけ・・・。大きく変わっているように見えて、本質的には何も変わっていない。そんな底冷えするようなアイロニーが、はいふりの世界感の奥に蠢いている。
その他のアイロニー
はいふりに含まれるアイロニーは、三大アイロニーだけではない。ここでは細かなアイロニーも紹介していこう。
立石志摩と西崎芽依のアイロニー
立石志摩と西崎芽依。この2人の間に横たわるアイロニーは非常にわかりやすい。
2人が仲良くなるのは立石志摩がRATtに操られて暴走した後である。その姿を見た西崎芽依は立石志摩を以下のように評した。
引っ込み思案な砲術長だと思ってたけど、見直した!
この時の西崎芽依はRATtのことを知らないため、立石志摩が自分の意思であの事件を起こしたと考えているが、実際には違っている。2人の急接近は実際には勘違い、しかも晴風反乱疑惑の原因を作ったRATtによって引き起こされたのである。
これも一つのアイロニーと言えるだろう。
RATtのアイロニーその2
RATtの概念的なアイロニーについては上で語ったが、他にもRATt関係のアイロニーはある。
結果的に最悪の事態を引き起こしてしまったRATtではあるのだが、ある部分に注目してほしい。第八話で宗谷真霜の報告書を受け取った宗谷校長はRATtの実験艦について、以下のように話す。
実験艦は深度1500mまで沈降。制御不能。サルベージは不可能。
深度1500mはいわゆる「深海」であり、太陽の光は届かない。さらに温度は2~4度になる*2。その状態で制御不能な船の中に閉じ込められていたのだから、相当過酷な状態にあったのだろう*3。
しかし、RATtは死なず、海底火山の活動で再び地上に押し上げられるまで生きていたのである。具体的に沈没してから浮上までがどの程度の期間だったかは不明であるが、おそらく1日2日程度ではないだろう。
つまり、RATtは元々の実験目的であった「密閉環境における生命維持及び低酸素環境に適応するための遺伝子導入実験」に見事に成功していた可能性がある。
RATtはこの福音と同時に人類にとっての災厄も一緒に連れてきてしまったわけだ。これも状況のアイロニーと捉えられるだろう。
岬明乃と知名もえかのアイロニー
第一話で再開した岬明乃と知名もえかが海洋実習の準備のために別れるシーンでは以下のセリフがある。
明乃「じゃあまた二週間後。海洋実習終わったらだね」
もえか「うん。二週間なんてあっという間だよ」
知名もえかの「あっという間だよ」というセリフには言外に離れ離れだった中学の3年間との比較が含まれている。
しかし、一度作品を視聴した人は分かる通り、RATt事件によって二週間後だった2人の再会は一か月先になり。お互いの安否が分からないまま過ごしたその一か月は中学の3年よりも長く感じたであろうことは想像に難くない。これは作品を見返した時にわかる言葉のアイロニーである。
納沙幸子とヴィルヘルミーナのアイロニー
納沙幸子とヴィルヘルミーナの関係にもアイロニーが含まれる。
第五話で共通の趣味を持っていることを発見した2人は急速に仲良くなっていく。納沙幸子は第九話で親友のヴィルヘルミーナを助けるため、自らシュペー攻略作戦を推進することになる。
しかし、シュペーが助かるということは当然ヴィルヘルミーナもシュペーに帰ってしまうことを意味する。シュペーへの突入作戦を成功させ喜びの中にいる晴風メンバーの中で、唯一納沙幸子だけがふさぎ込むという構図が出来上がるのだ。
自分にとって悲しい結末への道筋をそれと気づかずに躍起になって進んでいく、そんな納沙幸子の姿も一つのアイロニーを体現していた。
おわりに
はいふり三大アイロニーを含めて、はいふりには多くのアイロニーが含まれている。その理由は、やはりはいふりが岬明乃と宗谷ましろの関係に代表されるように、構造的な作り方をされていることに起因するのではないかと考える。
前回と同様に、ここでも形式主義批評としては一旦筆を置こうと思う。次の批評は再び別方向からはいふりを考えていく。
*1:廣野由美子著 批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義
*2:http://www.godac.jp/deepsea.html
*3:実験動物の代名詞として有名なげっ歯類のモルモットは生存可能な限界温度が10度となっている