はいふり批評5 巨大なSFと小さなRATt

おれが生を享けた憎むべき日よ!呪われた創造主よ!

おまえでさえ嫌って顔をそむけるような醜い怪物をどうしてつくったのだ?

――メアリ・シェリー「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」

はいふりに対して行うジャンル批評もこれで最後になる。ここではサイエンス・フィクション(SF)としてはいふりを見ていく。

果たして、はいふりはSF作品なのであろうか。SF作品である場合、その特徴はなんだろうか?
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SFという広大なジャンル

SFはおそろしく広大で、変化に富んだジャンルである。今まで、SFの定義について様々な人が様々な言葉を尽くしてきたが、SFの作品群が広がるうちに「時代遅れ」になっていった。前回で引用したデーモン・ナイトの他、SFの定義のむずかしさについて以下のような発言がある*1

SFとは、SFというレッテルを張られているすべての出版物のこと

ーーノーマン・スピンラッド 

 SFは存在しない、SF作品が存在するだけだ!

ーージャック・ジャン・エルプ

 SF全体を包括できる定義は難しいものの、SF作品としての特徴に関してはある程度の一致した見解があるようだ。

SF批評家のピーター・ニコルズはSFには「認知的・科学的なものの見方」が不可欠であると発言している*2。物語の中で何か「不思議なこと」が起きた場合、その根底に「認知」「(疑似)科学」があるものがSFであり、そうでないなら幻想小説かおとぎ話、というわけである。

上記のような観点から見た場合、はいふりのSF要素とはなんだろうか。日本の陸地が沈み、メガフロートが作られた世界感というのも確かにSF的な要素ではあるだろう。しかし、ここで注目したいのは作中で起きた事件の原因「RATt」についてである。

はいふりのSF要素「RATt」について

まず、RATtについておさらいをしよう。RATtとは研究の結果偶発的に生まれた生物であり、ネズミに酷似した姿をしている。この生物の最大の特徴は自身に感染したウイルスにより、「RATtシンドローム」と呼ばれる症状を引き起こすことである。RATtシンドロームでは、通常のウイルス感染症と異なり、感染者同士が生体電流を用いたネットワークに繋がれ、1つの意思に基づいて感染者全体が動くという現象が発生する。これによって、横須賀女子海洋学校の艦船が航海実習中に行方不明になるという前代未聞の事件が引き起こされた。

SF作品のお決まりになっている筋書きに「科学によって生まれたものが、予期せぬ結果を導く」というものがある*3はいふりRATtがまさにこれに当てはまるのだ。RATtがなぜ生まれたのか?それはTVシリーズ第八話に出てくる資料から分かる。宗谷真霜が校長に手渡したRATtの資料には以下の記載がある。

 密閉環境における生命維持及び

低酸素環境に適応するための遺伝子導入実験

 さらに、この実験に「文部科学省」「海上安全整備局」「国立海医科大学」が関わっていることも見て取れる。表題から意図を読み取るとすれば、第七話であったように船が横転してその中に閉じ込められた場合(密閉環境および低酸素環境)に生存率を高める研究のようだ。

研究の目的が上記の通りであれば、この世界にとって有意義なものである。ところが、その研究からRATtという存在が生まれてきてしまった。「科学によって生まれたものが、予期せぬ結果を導く」という定番の筋書きをなぞっているため、このRATtこそがはいふり最大のSF要素であると私は考えている。

他作品のRATtたち

RATtがSF要素を持った設定であることは分かった。しかし、それだけで「はいふりはSF作品である」と結論づけて良いのだろうか?

確かにRATtという存在は「進歩と破局は不可分である」というSF作品で繰り返し出てくるテーマに、見事に合っている。しかし、作品全体がその点に関し何らかの示唆を視聴者に与えるように作られていたとは思えない。あくまでRATtはSF風に作られた舞台装置であるかのように思えるのだ。

個人の感想をここで書いていても仕方がないだろう。同様のテーマが見て取れる作品と比較することで、RATtが「視聴者への重要な示唆」であるか「単なる舞台装置」であるかがわかってくるはずだ。

類似の設定がある作品で最も有名なのは、間違いなく「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」(以下、フランケンシュタイン)だろう。緑色の皮膚にボルトが埋め込まれた頭、つぎはぎだらけの顔・・・こうした「怪物」のイメージを知らない人はいない。この物語ではヴィクター・フランケンシュタインが死体を繋ぎ合わせて電気の力で生命を与え、怪物を作り出す。「死体が動き出す」という現象の根底に科学的な説明があるため、この作品は原初のSF作品とされている。

アニメの方にも目を向けよう。意外と同様の設定のアニメは少ないが、海が舞台という意味で外せないのは「青の6号」だろう。この作品では科学者ゾーンダイクが自ら作ったミュータントを使い、人類に反旗を翻す。この作品は海洋SFに分類されている。

RATtとの違いと道徳的示唆

今述べた2作品について、はいふりRATtと異なるところは以下の2つだろう。

  • 生命体が『意図的』に造られている
  • 生命体が高い知能を持っている

フランケンシュタイン」では怪物はヴィクター博士の野心から意図的に作り出される*4。そして怪物は高い知能があり、ミルトンの失楽園ゲーテの若きウェルテルの悩みを読んだりしていた。

「青の6号」でもミュータント達はゾーンダイクによって、人類に対するテストのために造り出された。ミュータント達は人と会話したり、ナガトワンダーと呼ばれる戦艦を操り攻撃を行うなど、高い知能を持つ。

その結果、上の2作品で何が生じているだろうか。人との交流とその結果発生する破局、あるいは調和である。「フランケンシュタイン」の怪物はその醜悪な見た目から人間に拒絶され、性格が歪み、ヴィクター博士の関係者を殺していくことになる。「青の6号」では敵対していたミュータントとの共生の可能性が示唆されて、物語が終わる。

対して、はいふりRATtはどうだろうか。前述したとおり、RATtは意図的に作られた生命体ではなく、偶発的に生み出された存在である。また、知能もネズミと同程度しかないらしく、危険と感じた対象に攻撃を仕掛けることしかしていない。最終的にはワクチンの開発と猫の活躍により無力化され、最終回の武蔵戦に関しては1つの描写もないまま終わる。

そこには、 「フランケンシュタイン」「青の6号」にはある道徳的な示唆が、全くといっていいほど無い。

以上のことから、RATtは事件を発生させるための単なる舞台装置であると私は結論づける。

はいふりにおけるRATtの価値

RATtは単なる舞台装置である」という結論を先ほど出した。これはあくまではいふりという作品が「SF風な設定が含まれる作品」であり、「SF作品」ではないと主張したいだけである。SFという枠組みで考えない場合であれば、RATtアイロニーや隠喩の含まれた価値のある存在である。

詳しくは後の批評でまとめるつもりだが、完全なる善意の元に行われた研究で、逆に人々を危険にさらしてしまったというのは、作品に不釣り合いと(表面上)感じるほどのアイロニーとなっている。また、RATtがネズミに酷似した生命体で、対する晴風クラスはネコの名前のようなキャラがたくさんいるのも興味深い。

RATtの捉え方は他にも考えられ、はいふりという作品に良い深みを与えている。

おわりに

ここまで、はいふりをSF作品として見てきた。確かにSF的な要素は各所にみられるものの、単なる舞台装置としての機能に留まっていると考えざるを得ないだろう。

他のSF作品と比べてみて、誕生した生物に対する道徳的な示唆が無い。また、SFの設定に対して既知を超えた脅威や驚きも特に無い。はいふりをSF作品として読むのは、オススメできないという結論になる。

ここまで横断的に4つのジャンルに対して、はいふりを当てはめて考えてみた。次のはいふり批評ではその結論を簡単にまとめて、ジャンル批評の総括としたい。

 

*1:すべてジャック・ボデゥ著「SF文学」から

*2:廣野由美子著「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」

*3:同上

*4:作り出したもののおぞましさは想定外だっただろうが