幻影ヲ駆ケル太陽 episodio XIII 「太陽の微笑み」

幻影ヲ駆ケル太陽第十三話みました。


はっきり言うと、「残念な最終回」と言えてしまうだろう。
多々説明不足な点があり、もやもやが晴れないのもその一つ。
また、アニメ的な描写がいまいちになっていた点も一つだろう。


簡単に不満点をまとめると以下のようになる。
■説明不足

  • ぎんかの元にあかりの声が聞こえたのはなぜか(ぎんかのいうとおり「あかりとケルブレムがクレシドラに入ったから」であるならば、なぜなのか説明が欲しい)
  • ぎんかが対カードを突き刺しても自分にダメージが帰って来なかったのはなぜか(ぎんかの言う「向こうの世界」が関係していると思われるが、説明が欲しい)
  • 「節制」のダエモニアはどうなっているのか(8話の戦闘後、実は節制のダエモニアは消滅せず存在し続けていた? 説明がほしい)
  • 「節制」の対カードを取り込んだぎんかはアイオーンタロットを手に入れた?(直接的な描写なし、説明が欲しい)
  • なぜ今まであかりに自分から声をかけなかった冬菜が声をかけたのか「太陽」の輝きが弱くなったから、せいら・るな・ぎんかの声が届いたからなど解釈は可能だが、説明がほしい)
  • ケルブレムの発言した「エレメンタルタロットは永遠に22枚そろわなくなる」とは?(あかり意外に太陽の血統を継ぐ者がいない? 説明がほしい)
  • ケルブレムはダエモニアを生命へと進化させ、何をしたかったのか(説明がほしい)
  • ケルブレムの正体は何者か(最後の描写からおそらくあかりの父だった存在がダエモニア化したものだが、説明がほしい)
  • レグザリオの目的はなにか(説明がほしい)
  • レグザリオの正体はなにか(説明がほしい)

ここまで書いておいてなんだが、上記の事は実際どうでもいい。
ストーリーや物語の根本にかかわらないから。


しかし、同じストーリーや物語の根本にかかわらないものでも、以下は何とかしてほしかった。

  • さっそうと登場した先輩が棒立ちでやられる(もうちょっと活躍させてあげてもいいんじゃないですかねぇ・・・)
  • あかりの叫び声にかなりの違和感(これは門脇さんの体調の事もあるのであまり強く言えないが、率直な感想として)
  • 冬菜の謎ポエム(まるで死体蹴りをしているようないたたまれなさ)


上記はアニメ的な面白さに直結する部分だったため、見ていた時の違和感から素直に楽しめなかった。
かなり個人的な主張も入っているのは重々承知だ。
だが、上記のような部分からこの作品の評価が私の中で下がったのも抗いようもない事実だ。




さて、落としに落とした所で今から絶賛させていただく。




「俺は俺の道を進ませてもらうぜ」
私はこの考え方が物語の根本に座している作品が好きだ。


最終回のあかりはまさにこの考えの化身だった。
クレシドラの中で冬菜の気持ちに触れ、あかりはある結論に至る。
「人の心に闇があるのはしかたがないこと。人は何度でもやり直せる。だから、闇に落ちた後一方的に悪行しか行わせなくするダエモニアは間違っている。私は今からダエモニアになった人を普通の人間に戻す方法を探す」


この考え方自体、殺すか救うかどちらか一方しかないアニメを見てきた私にとっては目からウロコだったが、重要なのはそこではない。
重要なのはあかりがこの運命を自ら選び、自ら歩もうとするところである。
以下のあかりのセリフにもそれが表れている。
「これからも自分の道は自分で選ぶ」「運命は自分で選ぶ。あなたが決めることじゃない!」


そして、上記のセリフで初めて、あかりはケルブレムに対して明確な否定を行う。それまではケルブレムに対して「そうだとしても」「全部わかりあえたなんて思ってない」「そうかもしれない」など相手の意見を完全に否定しない言葉を使ってきた。


そして最終決戦。巨大化したケルブレムにあかりは挑んでいく。
ケルブレムはあかりが選んだ運命、「ダエモニアになった人間を救う」の真逆の生き方をしている。ケルブレムはあかりの運命にとって倒さなければならない敵となった。
そこにせいら・るな・ぎんかはいない。あかりの選んだ運命はあかりのもので、彼女たちのものとは違うからだろう。


そしてあかりはケルブレムを倒す。




実にいい。自らの道を進む、というのは8話のぎんかとせいら、12話のるなからも読み取れたが、やはり主人公がド直球にこの考え方を貫いてくれるとうれしくなる。最終回はアニメ的には残念な出来と言わざるを得ない。
しかし、思想的な意味でこの最終回を超える作品を私はしらない。